- はじめに
- T 「資料」とは何か
- 一 「手品師」
- 二 手品師の生きかた
- 三 「道徳」授業の一般的傾向
- 四 文章としての資料
- 五 文章と経験
- 六 「ししゅうのあるセーター」
- 七 資料の読みかた
- 八 意志決定のための条件
- 九 システム
- 十 〈表と裏の使い分け〉システム
- 十一 人命と法
- 十二 生命の意義
- U 「道徳」授業は、何が出来るか
- 一 人柄
- 二 気持ち
- 三 言葉による抽象の型
- 四 関係の型
- 五 「規則」のシステム
- 六 徳目と寓話
- 七 徳目主義
- 八 学習内容としての「システム」
- おわりに
はじめに
私は「道徳」という時間に反対である。つまり、小・中学校で週一時間「道徳」という時間を設けている制度(特設「道徳」)は、やめるべきだと思っている。
しかし、「道徳」という時間の枠は現にある。時間はあってもその時間を「道徳」以外のことに使うというのなら、それもいい。しかし、この時間にまさに「道徳」の授業をしなければならないとしたら、どうすればいいのか。この問いには、「道徳」反対論者であっても答えなければならない。
まさに確実に道徳を学ばせるような授業をすればいいのである。子どものためになる授業である。
「確実に道徳を学ばせるような授業」とは、どのような授業か。それを私はこの本で書くつもりである。「道徳」という時間の中で行われ得る、なるべく良い授業のありかたである。現状の「道徳」授業の大勢とはまったく異なる授業である。
このような授業は、「道徳」という時間が制度としてあるからやむを得ず行なうという授業ではない。つまり、道徳を学ぶということは、「道徳」という時間の有無にかかわらず、教育課程の様々な領域で行なわれるべきことなのである。そのような授業を「道徳」と名づけるかどうかは、どうでもいいことである。だから、「道徳」の時間を別のことに使うのは、それでいいのだが、その場合でも、道徳を学ぶ授業は、他の時間で行なわれなければならない。
右の主張は、やや複雑でわかりにくいので、もう一度簡単に書きなおす。
私は、整理すれば、次の四点の主張をしたことになる。
1. 特設「道徳」という制度には反対する。
2. 「道徳」の授業をしないですむなら、それでけっこうである。
3. 「道徳」の授業をしなければならない場合には、出来るだけ望ましい授業をするべきである。それは、現状の「道徳」授業の多くのものとはまったく異なった授業である。確実に道徳を学ばせるような、子どものためになる授業である。
4.このような、道徳を学ばせる授業は、2のように「道徳」の授業をしない場合でも、教育課程の他の領域で行なわれるべきである。
私は、「道徳」については、今までに次の三冊の著書を出した。
@ 『「道徳」授業批判』(明治図書、一九七四年)
A 『「道徳」授業をどうするか』(明治図書、一九八四年)
B 『道徳教育』(日本放送出版協会、一九八七年)
いずれも、かなり広く読まれているようである。(一九八九年四月現在、@は第二〇刷、Aは第二一刷、Bは第二刷である。)
右の三冊も併せ読んでいただければ幸いである。
今書きつつあるこの本では、なるべく右の三冊との重複を避け、まだ論じられていなかった問題を論じるつもりである。
明治図書・編集部の江部満氏のお勧め、お励ましによって、書く気力が強まった。お礼を申し上げる。
一九八九年三月三〇日 /宇佐美 寛
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- 道徳授業の内容を考え議論するからには、必読です!2018/2/27ひろK