- はじめに
- 1章 なぜ「間違い」が大切なのか
- /岩崎 直哉
- 教室は間違うところ
- 精神論だけではない「間違い」論
- 間違いをめぐる三つの側面
- 間違いはその子なりのもの
- 子どもの間違いと出合ったとき
- 間違えてはいけないと考えているのは誰なのか
- 間違いは、学びの過程に
- 2章 「間違い」は学びを深くする
- /志田 倫明
- 教室に「間違い」があることの価値を再考する
- 「間違い」のある教室の一事例〜2学年「直角」の学習場面〜
- 深い理解には、「間違い」が必要
- 「間違い」は、異なるものと出合うチャンス
- 本当に恐れているのは、間違うことではない
- 3章 国語科における「間違い」の正体
- /岩崎 直哉
- 「間違い」が学習の過程に位置づくからこそ
- 国語科の「間違い」って何だろう?
- なぜ、国語科の「間違い」は分かりにくいのか
- 国語科の「正確」って何?
- 「さかなをください」は間違いなのか
- 「じどう車くらべ」の適切なまとめを考える
- 「赤いくちばし」が生かされた授業
- 国語科では「不十分さ」を生かしたい
- 4章 解釈と修正で「間違い」を生かす
- /志田 倫明
- 算数における「不十分さ」
- 陥りやすい教師の「分断本能」
- 4学年「分数」の学習場面
- 「間違い」の生かし方〜正誤を判断させたら〜
- 「間違い」の生かし方〜解釈・修正の活動を意識したら〜
- 不十分さの指摘は子どもができるように
- 5章 「間違い」が深い理解を促す
- /岩崎 直哉
- 算数科と国語科の接点
- 言葉の力、概念の形成
- 語用論としての言葉の力
- 語用論的に解釈していくということが大切
- 因果関係を明確にして「じどう車ずかん」をつくる
- 「そのために」があればOKではない
- 不十分さを検討して深く理解する子どもたち
- 6章 「間違い」が学び直しを促す
- /志田 倫明
- 語用論からみる算数の学び
- 因果関係を明確にして「たし算」を理解する
- 原理・原則を理解する
- 学び直すことで、深まる
- 5学年「分数のたし算」の学習場面
- 「新しく増やす学び」から「同じことを繰り返す学び」へ
- 7章 「間違い」が「深い学び」を促す
- /岩崎 直哉
- 「理解が深い」とはどういうことか
- 理解の深さは過程に宿る
- 「教えて考えさせる」でよいのか
- 「教えて考えさせる」を再考する
- 繰り返し「同じこと」を深く学ぶ
- 同じ教材で学び直す
- 「ちいちゃんのかげおくり」で学び直す
- 8章 「間違い」をめぐって授業観を再構築する
- /志田 倫明
- 「間違い」は、その子らしい学び
- 子どもの学習性無力感は、教師の授業観が引き起こす
- 問題解決できないけど、授業は楽しい
- 働かせる見方・考え方をもつ
- 教師の授業観と覚悟
- 「間違いを生かす授業」が目指すもの
- 終章1 学びとは
- /岩崎 直哉
- 学びは「間違い」の連続でつくられる
- 学びは文脈である
- 学びは関係性である
- 学びは自分探しである
- 終章2 「間違い」の価値を問い続けて
- /志田 倫明
- 学校で学ぶ価値
- 「間違い」を恐れない心構えが学びを支える
- 子どもから間違える権利を奪わない
- 教師として成長し続けるために
- おわりに
はじめに
若手の頃、先輩から「一つの教科に特化して、突き抜けろ」ということをよく言われました。小学校の教員は、あれもこれも自ら授業をしなければなりません。すべての教科を究めようとするのは、なかなか現実的な方法とは言えません。研究として深めるならば、やはり一つの教科教育に焦点を絞る方がよさそうです。
しかし、この先輩の言葉の意味は、それだけに止まらないことに気づきました。私の場合、大学から専攻していた国語科教育に射程を定めて、あちらこちらの研究会にお邪魔したり、授業実践を公開したりしてきました。そうして国語科の授業や国語科という教科についての問題意識を常に持ち続けようとしていましたが、それは同時に自分が行う算数や理科などの他教科の授業についても考えるきっかけになりました。国語科の授業がそれなりにうまくいけば、その生き生きと語る子どもの姿をイメージして他の授業でも取り組んでみたり、このやり方は他教科でも通用するのだろうかと転移させて考えたりもしました。逆に国語科において、子どもの姿に不十分さを感じれば、他の授業でも、ここを鍛えることはできないかと考えたり、他の授業で手ごたえを感じたやり方を国語科でも試してみようと考えたりしました。
すべての教科をがんばろうと漠然と思っていても、なかなか見えないものがあるのかもしれません。一つの教科を突破口にして、子どもについて考えたり、よい授業のイメージを膨らませたりすることで、あらゆる教科の在り方が見えてきます。一つの教科を追究することで、結果的に他の教科に波及する見方や考え方が得られるからです。それは一つの窓から、広い世界を眺めるような感覚です。窓口を一つにすることで、授業実践という茫洋と広がる世界を確かに捉えることができると考えます。
また、一つに絞った窓口そのものを時折、相対化してみるということも大切です。国語科教育について考えるときに、国語科の実践家の話を聞いたり、国語科の授業を参観したりすることは当然欠かせないことです。しかし、「そもそも国語科って何だろう」「国語科教育って、どうあるべきだろう」という問いを追究するには他教科と比較してみることで、より大きな文脈から考える必要が出てきます。私の場合、いつの間にかそのように考えることが習慣化していました。
そのような習慣が身に付いた大きなきっかけは、本書でご一緒する志田倫明さんの影響です。志田さんは、公立小学校の教員でありながら、全国を忙しく飛び回る算数の実践家です。志田さんとの出会いは、20年ほど前、私がまだ新潟県の初任校にいた時代です。当時、私はすでに国語科をもっと学びたいと意気込んでいましたが、二校目で異動した佐渡島には、授業づくりについて語り合えるような私的な研究会がありませんでした。そこでたまたま声をかけた志田さんと、国語・算数サークル「みなもの会」を立ち上げたのです。若手中心に「気軽に、そして真剣に」学ぶというモットーを掲げて、活動していました。そこでは国語科の授業実践、算数科の授業実践が報告されますが、それをきっかけに「国語って、算数と比べてこういうところが難しいよね……」「算数も意外と国語と同じように……」というように、教科を比べたり重ねたりしながら、学び合っていました。志田さんとは、それ以来、子どもをどう見るか、学ぶということをどう捉えるか、学級をどうつくるか……などと、教科の垣根を越えて考えられることを議論してきました。
「間違いをどう生かすか」ということも、しばしば話題に上がったものです。まだ何者でもない若手の時代から、著名な実践家になった現在に至るまでに、志田さんが一貫して大切にしているトピックでもあります。本書では、この「間違い」をめぐって、授業論をひらいていきたいと考えています。
本書の特徴の一つは、国語科と算数科を行ったり来たりして、議論を展開するところです。国語科あるいは算数科の実践書は数多くあります。そのような本を読み慣れている読者の皆さんには、複数の教科を行ったり来たりするような構成には、戸惑いを感じさせるかもしれません。また、もう一つの特徴は、複数教科を話題にするために、「対書」という形式を取ったことです。私が国語科を中心に述べたことを受けて、志田さんには算数科を中心に述べてもらいます。一章ずつ国語科・算数科の話題を繰り返し、前章の話題を受けつつ、新しい視点を導入していきます。あたかも書面上で対話をするように、互いが考えながら授業観を擦り合わせ、磨き直すことをねらっています。つまり、授業の方法を指南するハウツーではありません。全体を通読する過程で「国語科とは」「算数科とは」「学びとは」……そんな本質的な問題意識が読者の皆さんの心に浮かぶことを願っています。
平易な言葉で、具体的な実践の場が伝わるように努めてはいますが、国語科・算数科を行ったり来たりすることで、読者の皆さんに余計な負荷をかけるかもしれません。ただ、そのような負荷が、私たち授業者がいつの間にか固定的に抱いてしまっている教科観や学習観のイメージを相対化するものになれば幸いです。
2025年4月 /岩崎 直哉
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明治図書- 最近よく出版されるテーマではなく、一斉授業について再考できるテーマの本だったのでよかったです。2025/6/1920代・小学校教員

















