- まえがき
- 1 丸の内を見下ろす銅像
- 2 株式会社とは何か
- 3 武州血洗島の一農夫
- 4 師、尾高藍香
- 5 藍の仲買いに出る
- 6 代官に対する反抗
- 7 勤皇の志士となる
- 8 横浜焼き討ち
- 9 挙兵を中止する
- 10 京都へ逃亡する
- 11 一橋家家臣となる
- 12 薩摩藩士と知り合う
- 13 農兵隊を組織する
- 14 幕臣となる
- 15 パリ万国博覧会
- 16 経済制度を学ぷ
- 17 幕府瓦解
- 18 新政府へ出仕する
- 19 実業界への第一歩
- 渋沢栄一関連年表
- 保護者のみなさんへ
- 参考文献
まえがき
慶応三年(一八六七年)一月、フランスのパリで第五回万国博覧会が開かれました。この万国博の会場に、二十人ばかりの、ちょんまげ姿をした武士の一団があらわれました。徳川幕府の使節団です。
その使節団の中に、後年、日本の経済界をリードすることになる渋沢栄一がいました。かれは、パリに数多くの銀行や会社があって、大勢の人の金を集めて大規模な営利事業をいとなんでいるのを見ました。そして、その利益が人々を富ませ、ひいては国家を豊かにしていることに気がついたのです。
大きな事業を経営するためには、一人ひとりでいくら努力しても個人の力には限界があります。株式組織でたくさんの人が集まって、資金を出し合って経営する方が有利です。このこのことは、今から考えると当たり前のことですが、明治の初めには大実業家でも、個人経営の方がまさっているとして、渋沢栄一の「合本主義」(株式会社)に反対した人もありました。
現在では、わが国の大企業は、ほとんどみな株式会社になっています。
栄一のもう一つの業績は経済活動のにない手である民間経済人の地位の向上に力を注いだことです。というのも、栄一は、フランスの社会では、商工業者の地位と官吏もしくは軍人との関係が、対等またはそれ以上であることに感激したのです。「これでなければ真に産業を振興することはできない。」と思いました。
商工業者の実力を養い、徳義と品格を向上させること。そして、日本をヨーロッパなみの、近代産業社会にしたいという栄一の願いは、みごとにかなえられ、今日わたしたちはその産業社会の恩恵をこうむっています。現代の経済における繁栄もまた、栄一をはじめとする明治の先人たちの努力の集積の上に、その連続としてあることを忘れてはならないのです。
/小笠原 幹夫
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