新しい社会科授業への挑戦4発信型の新しい問題解決学習

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子どもはどのように学習するか=子どもの学びの姿を追って/発信型の問題解決学習の創造/「自己学習力」を育てる=発信型問題解決学習の中核。


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電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-448704-1
ジャンル:
社会
刊行:
2刷
対象:
小学校
仕様:
A5判 196頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

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まえがき
第T章 子どもはどのように学習するか
―子どもの学びの姿を追って―
一 子どもはどこまで追究するか
1 子どもの問題解決活動の姿を求めて「千川通り」の追究
2 子どもの社会認識の尺度を見直す
3 社会参加的な活動と発信
二 「納得」の学習
1 「翻訳」をする子ども
2 感性とは何か
3 「感性、論理」の翻訳と自問自答
(一) 堆肥を吸うと米もうんち臭くなるか?
(二) 古墳時代の鉄製のくわは、今のくわよりも工夫されているか?
(三) 三重の濠と埴輪、どうつながる?
三 「納得」の学習から「価値を明確にする力を育てる」学習へ
1 子どもの変化と「価値」の学習―ロールプレイングの実践を通して―
(一) 「思いやり」の心が欠けている? 子ども群
(二) 社会科の課題と「思いやり」
(三) 「思いやり」の心を育てるロールプレイング(価値の学習)の実践
単元名「安全なまちづくり(交通事故を防ぐ)」/ 単元のねらい/ 単元の展開
(四) 「価値」を学ぶ意義
2 「価値」を育てるディベート
(一) 社会科の授業とディベート
(二) 社会科ディベートの実践、「今のくらしの方が昔のくらしよりもよいか」
社会科の授業にディベートを取り入れる立場/ 指導計画とディベート/ 合理的な意思決定の能力を育てる/ 論理を組み立てる
(三) 合理的な意思決定と自問自答
生活に生きるディベートを/ ディベートの成立―自問自答と合理的な意思決定
四 「価値の学習」から「社会参加(発信)する力を育てる」学習へ
1 「価値」の役割と「社会参加的な活動(発信)」
(一) リサイクルでいいのか?―「わかること」と「できること」―
(二) 「実践できる」子どもへ―客観的な価値判断ができる―
2 社会参加的な活動(発信)への筋道
(一) 社会参加的な活動(発信)の種類
(二) 社会参加的な活動(発信)への筋道
(三) 社会参加的な活動(発信)を支える要因
第U章 発信型の問題解決学習の創造
一 子どもが変わった
1 風景の変化と体験活動
2 「生きる力」の火種を育てる
二 社会が変わった ―「合理的な意思決定」の問題解決過程を探る―
1 新しい問題解決学習創造の背景
2 「生きる力」と共生社会
三 発信型の新しい問題解決学習
1 発信と社会参加的な活動
情報教育と「発信」/ 発信の方法と発信対象/ 「生きる力」と「発信型の問題解決学習」/ 合理的な意思決定のうえに立つ「発信型の問題解決学習」
2 発信型の新しい問題解決過程
3 発信型の新しい問題解決学習の実践―「西根町のほうれんそう栽培―農家経営シミュレーション」の実践から―
四 発信型の新しい問題解決学習と指導法の日常化
1 指導法の日常化を目指して―「屋久杉はなぜ生き残った?」の実践から―
単元 屋久杉はなぜ生き残ったか?(国土の様子と環境保全)/ 教材「屋久島」を取り上げる意義/ 単元の目標/ 学習計画/ 本時の支援
2 合理的な意思決定のための問題解決学習
第V章 「自己学習力」を育てる
―発信型問題解決学習の中核―
一 発信型の問題解決活動の中核としての「自己学習」
1 「自己学習」と発信する力
2 「自己学習」重視の背景
二 「夏休み自由研究」の分析
1 生活に密着した「問題意識」と「解決への意欲」―日記型自由研究(積み上げ自由研究)―
2 「学び方」と「自己評価」―目次型自由研究―
3 「自己学習」の条件
三 「自由研究」の応用・発展 ―見学や地域観察への応用
四 「自己学習」を核にした授業実践への試み ―「よみがえる国土に」(環境学習)を例として―
1 子どもの実践―上辺に流される環境の学習(環境問題)―
ア 皮相な価値判断/ イ 知識としての環境問題
2 環境学習を展開するに当たっての願い―上辺のことに流されないために―
グローバルなものの見方を育てる/ 足もとを見つめ、考える/ 自己活動の流れをつくる
3 「自己学習」の方法を取り入れた環境の学習と授業の展開
4 実践例
指導計画「『緑』についての自分だけの本を作ろう」/ 子どもの学習活動の実際/ 選択学習の例/ 社会参加的活動(発信)を始める子どもたち

まえがき

 本書は、前著「子どもとつくる問題解決学習」の続編として書いた。

 前著では、子どもの論理と感性の関係について述べた。論理と感性の両方が相俟ってはじめて、子どもは、深い納得を得ることができるということを明らかにしてきたつもりである。

 前著を著した頃は、まだまだ「理解」中心の授業づくりが盛んに行われていた。これは、教師主導による問題解決学習といっても過言ではない。何とか、子どもが主体となった、子どものための問題解決学習をつくることはできないかと考えた。それが前著執筆の動機であった。

 以来、およそ四年が経った。この間、子どもも社会も大きく変化した。

 子どもが目にする風景から、今や完全にといっていいほど路地や広場が消え、都会ではどんどん田や畑が消えていった。当然、仲間と遊びながらも切磋琢磨し合う子ども社会が消滅した。まして、少子化のため、兄弟間の切磋琢磨さえも無くなっている現在である。

 また、田畑で働く農家の人達の姿や土のにおい、堆肥のにおい、そして徐々に育っていく作物の姿も消えた。

 そもそも、これまでの授業は、こうした子どもたちの原風景を前提として成り立っていたように思う。この前提が完全に崩れかけているのである。したがって、昔と同じ授業をやっていたのでは、空回りするのは当然である。まして、「新しい荒れ」が教室を襲っている今、授業そのものの成立さえも危ぶまれるようになってきている。

 社会の変化も著しい。

 例えば、これまで、政府が決めたことは一つの基準であり権威であった。しかし、今や改正廃棄物処理法に対する地方公共団体や住民の反応にしても、沖縄の普天間基地移転の問題にしても、政府の方針イコール絶対的な権威でなくなってきている。むしろ、その問題に関わる全ての当事者の合意が、より必要な社会になってきている。

 また、コミュニティーゾーンを設けるなどのごく身近な地域の交通問題にしても、当事者の合意がなければ、なかなか問題は解決しない。共生社会といわれる所以である。

 ひるがえって、このことを社会科の授業に当てはめると、ある一つの正解だけを求めたこれまでの問題解決的学習では、もはや正しい問題解決ができない社会に変化してきているということである。現代社会では、これまでの問題解決的学習の先に、もう一つの「新しい問題解決学習」を必要としているように思われる。

 このような理由で、四年前に提唱した「納得を得させるための問題解決学習」だけでは、もはや、現実に対処する力を子どもに培うことはできなくなっていることを痛感するようになった。

 本書でもっとも主張したかったことの一つは、このもう一つの「新しい問題解決学習」の在り方である。

 しかし、そうはいっても、子ども本来の自然な「学び」の中に「新しい問題解決学習」の姿が無ければ、結局は大人の押し付けで終わる。そのため、本書では、改めて子どもの自然な「学び」の姿のとらえ直しを試みた。

 その過程で見えてきたのが、「理解、納得のための問題解決活動」から「意思決定し、社会参加する問題解決活動」へという流れであった。以上の趣旨に沿って、本著は、初稿を『社会参加の力を育てる問題解決学習』という書名で書き終えた。しかし、この書名に変更を加えなければならない二つのできごとが起こった。

   *              *

 一つは、岩手県岩手郡西根町との交流である。

 西根町は、ほうれんそうの栽培で、昭和六三年、農林水産祭園芸部門の「天皇杯」を受賞している。畑作物、果樹、工芸作物等多くの部門の中からの最優秀賞であり、価値の高い賞である。つまり、日本一のほうれんそうの町である。

 私は、この西根町を教材化するために七年の歳月をかけた。きっかけは、八年前の真夏に、スーパーでほうれんそうを販売しているのを見かけたことに始まる。当時、真夏に秋冬作物であるほうれんそうを生産するなど、日本中の誰もが夢にも考えもしなかったことである。西根町の人達は、豊かな知恵と血の滲むような努力でそれを可能にした。

 以来、西根町に関心を持ち、資料の収集を続けてきた。教材化の目途が立った平成九年、五年生の社会科を担当したのを機に、私は、西根町に取材に出かけた。西根町では、町長以下、農政課、JA、生産者など町をあげて応援してくれた。成果は、六月の研究会で公開した。このときの授業の様子は、新聞数紙が全国に報道した。

 さらに、この年の七月、西根町から、授業を受けた四〇人の子どもたちと担任及び専科の私を「ほうれんそう栽培体験学習」に招待したいとの手紙を受け取った。もちろん、子どもたちは大喜びである。前から、西根町の紫色のビニルハウスやほうれんそう栽培を実際に見たいと漏らしていたからである。西根町では、この案件を早速議会にかけ、予算化してくれた。私にしても、子どもたちと現場の人たちとの実際の「交流」が可能になったのであり、これ以上の社会科は無いと喜んだことは言うまでもない。

 平成九年八月二二日、一泊二日の日程で「ほうれんそう栽培体験学習」が実施された。播種、収穫、調整、出荷の全過程の体験をさせてもらった。

 子どもたちが、得たものの大きさは言うまでもない。スポスポと抜けるほうれんそう(収穫)、しかし、中腰での作業が続くと腰が痛くなる。畑の土は柔らかく、足が沈む感じがする。これは、今までに経験したことのない感覚である(完熟堆肥が一メートルも入っている)。外気よりも涼しく感じるビニルハウスの意外さ。傍らを流れる用水路の水は冷たくきれいである。こんなきれいな水で育っているのだからほうれんそうもおいしいはずだと理屈抜きに納得する。いずれも教室の中だけでは絶対得られないことである。

 ところで、この後、この「ほうれんそう栽培体験学習」は意外な波紋を広げ、意外な方向へと発展し始める。

 工藤勝次西根町長は「作業での児童の皆さんの真剣な眼差しや生き生きとした姿を拝見し、生産者である農家の皆さんは品質や生産向上に更なる意欲が湧いたと話しております」(『ホウレンソウ栽培体験学習報告書』)と、波紋の一端を述べる。また、地元の子どもたちにも、栽培体験をさせたいとの声が出る。次は、平成一〇年五月一七日の讀賣新聞コラム欄に載った「ホウレン草交流」の記事の一部である。

 「ビニールハウスは温度を下げるためにも使われ、完熟堆肥を入れた土は少しも臭くない。都会っ子の感激ぶりは逆に産地を刺激した。『西根の子は、どれだけホウレン草を知っているだろうか』と。たとえば都会っ子と一緒の授業が地元でできないか。単なる体験ツアーを超えた交流を目ざして田村さん(西根町農政課長)は、知恵を絞る」

 こうした地域の波紋を背景に、平成一〇年度は、二泊三日の日程で西根町の子どもたちといっしょのほうれんそう栽培体験学習がもたれることとなった。これは、私としては予期しない驚きであるとともに望外の喜びでもあった。

 さて、なぜ「ほうれんそう栽培体験学習」が、このような発展を見せたのであろうか。

 もちろん、子どもたちは農家の人たちから、栽培の様々な仕方、問題点を克服する知恵、生産の喜びとたいへんさ、人生観など多くの指導を受けながら、生産活動に従事した。子どもたちなりの社会参加を果たしている。

 しかし、一方で、指導を受けている子どもたちも、農家の人たちに何らかの発信活動をしていたようである。それは、時には眼の輝きであったり、熱心に取り組む態度であったり、歓声であったり、言葉の端々であったりしたようである。

 つまり、子どもの社会参加(正確には、学習であり生産活動そのものではないので「社会参加的活動」であろう)というのは、単に参加するというだけに留まらず、必ず何らかの発信活動を伴うということである。それが、時には予期しない方向で地域を動かしたり、社会を変えるエネルギーにつながることもある。

 つまり、「社会参加=発信」なのである。両者は裏腹の関係にある。西根町との交流を通して、私はこのことに目を開かせられた。私が、最初の書名のキーワードを「参加」から「発信」に変えた理由の一つが、このことである。

   *              *

 平成一〇年二月に行われた本校の研修会で、私は、「意思決定し、社会参加する問題解決活動」について授業提案した。授業は、単元名「屋久杉はなぜ残った?」である。

 この提案の中で、「『参加』を『社会参加』ととらえるからだめだ」という指摘を受けた。「『社会参加』も『授業参加』のなかの一つである」というのがその理由である。つまり、ロールプレイングやシミュレーション、ディベート等の授業と 同じように「社会参加」もそうした授業の中の一つであるとする。

 私自身も、ロールプレイングやシミュレーションを授業の中で積極的に取り上げている。それは、疑似体験ではあるが、全員の子どもに体験活動を保証する活動だからである。とりわけ、その活動の中で、合理的な意思決定場面を設定できるということが大きい。したがって、私は、児童全員が何らかの役割をもち、参加する授業を決して否定するものではない。

 しかし、私は、ロールプレイングやシミュレーション等の授業で事足れりとは決して思わない。それに続く活動として、どうしても直接体験(社会参加的活動)が必要であると考えている。それは、子どもの学びの姿から言えることである。子どもは、決して疑似体験では満足せず、必ず「本物を見てみたいな」とか「実際にやってみたいな」と言い出す。それが、健全な子どもの学びの姿である。

 直接体験ができない教材に限っては、やむを得ず疑似体験で単元が終了する場合もある。歴史的事象や空間的に遠く離れている場合などである。しかし、直接体験がベストであることは、言うまでもない。

 さて、前述した西根町と子どもたちとの交流の様子をもう一度見てほしい。現場の人たちとの交流(直接体験)は、絶対教室では得られない豊かでしかも深い納得を子どもたちにもたらした。どの子どもの目も生き生きと輝いていた。そして、同時に、子どもたちはその姿を通して何らかの発信を行った。西根町は、その発信を受け取ってくれた。

 社会科の学びの最終的な姿は、教室の中には無い。それは、あくまでも社会参加(的活動)の中にあると考え、私は実践に取り組んできた。この意味で、教室の中に学びの姿を求めようとする「授業参加」の理論とは、「参加」の意味が異なる。また、「授業参加」の理論が教室の中に「参加」の意味を求めようとする限り、「参加」には「発信」の概念は含まれないように思われる。

 私は、私自身の「社会参加」の意味をより明瞭にするために、キーワードを「社会参加」から「発信」に重点移動した方がよいと考えている。私が、最初の書名やキーワードを変えた二つ目の理由である。

 以上述べてきた思いを込めて、本書の書名を「発信型の新しい問題解決学習」とした。


 最後に、明治図書の樋口雅子氏には、たいへんお世話になった。本書の書名についてもご教示をいただいた。心から感謝申し上げたい。


  一九九八年八月   /波  巌

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