教えるを急がない練習

教えるを急がない練習

近日刊行予定

子どもたちの「言葉にならない学びの途中」をとらえるレッスン

「任せる」「説明を減らす」…「子ども主体の学び」に近づけようとするほど苦しくなってしまう先生へ。先回りしすぎず、でも、遠くから眺めるだけでもない。子どもたちの学びの途中を捉えながら、「教えることを急がない」関わり方を見つけるための思考のレッスン。


紙版価格: 2,266円(税込)

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ISBN:
978-4-18-431023-0
ジャンル:
授業全般
刊行:
対象:
小学校
仕様:
四六判 208頁
状態:
近日刊行
出荷:
2026年9月14日

もくじ

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まえがき
第1章 見方を見直す
1 名前で分ける前に、子どもたちの姿を見る
2 指導案は何のために書くのか
3 現場の外にいる自分が語るということ
4 「うまくいった」と思わなくなるまで
第2章 言葉を受け止め直す
1 沈黙の時間にもう少しとどまる
2 その言葉の奥にあるものを聴く
3 正しさを急いで渡さない
4 対話はその場でつくられていく
5 納得が生まれるとき
第3章 見取りを問い直す
1 教えることと教えないことの間
2 見取りは正解を探すことではない
3 単元の中で子どもたちを見る
4 ふり返りを読むということ
5 支えるとは何か
第4章 授業をつくり直す
1 教材研究は誰のためのものか
2 子どもたちが動き出す場づくり
3 一斉授業の中にもある学び
4 自由進度と呼ばれるものの中で
5 うまくいかなかった日から考える
第5章 一人で抱え込まない
1 変わりたいのに動けないのはなぜか
2 言いにくさを問いとして出してみる
3 職員室で子どもたちの姿から話し始める
4 押しつけることと、何もしないことの間
5 越境しながら、自分の当たり前をゆるめる
終章 迷いながら、また始める
1 また固くなる自分に気づく
2 自分の問いを持つ
3 明日の教室から
あとがき
学びほぐしのための読書案内(参考文献)

まえがき

 「子ども主体の学び」という言葉を、どこでも耳にするようになりました。ただ、「子ども主体」「子どもの側から教育を発想する」という考え方は、今になって急に生まれてきたものではないと感じています。「子どもたち一人ひとりが何に出会い、どのように考え、どこで立ち止まり、どう動き出していくのか」といったことを問い続けてきた実践や研究は、ずっと前からありました。

 私自身、教師になって間もない頃に、国語の研究会に入りました。そこで自分の授業を文字起こしし、子どもたちの言葉やそのつながりを見直す中で、少しずつそうした見方を学んできました。その後に移った学校でも、子どもの側から教育を発想することの大切さを教えていただいてきました。「自分では聴いているつもりで聴けていない」「よい授業だったと思っていても、子どもの側から見ると別の姿が見えてくる」…といったことを、何度も突きつけられてきました。本を書くようになったのは、それからずっと後のことです。ふり返ってみると、今「子ども主体の学び」と呼ばれていることと重なるものを、私は長く考え、試行錯誤してきたのかもしれません。

 だからこそ、こうした考えが広く語られるようになった今、少し気になっていることもあります。それが、いつの間にか別の「こうあるべき」として受け取られてしまうことがあるからです。


 ・子どもたちに任せる

 ・教師の説明を減らす

 ・子どもたちが選べるようにする


 といったことが大事にされるほど、そうした形に近づこうとして苦しくなる先生もいるのではないでしょうか。子どもたちの学びを大切にしたいと願っているのに、「何とか形にしよう」と教師の側が強く整えてしまうと、子どもたちも教師も、どちらもしんどくなってしまいます。

 問題は、「子ども主体の学び」という言葉そのものではありません。その言葉が示す形に近づくこと自体が、いつの間にか目的になってしまうことでしょう。教育を「これまで」と「これから」にきれいに分けて語ったり、どちらかを簡単に否定したりすることには、少し立ち止まりたくなります。

 実際、これまでの教育を問い直さなければ見えてこないことがあるのは確かです。ただ、それは新しい理想の形を決め、そこへ子どもたちや教師を急いで当てはめることではないでしょう。そうなると、本来大事にしたかったものをかえって見失ってしまいます。

 担任をしていた頃、教室の机に「おちつけ」と書いた付箋を貼っていました。糸井重里さんが気に入っている言葉だと知り、私も使うようになりました。ついその場の感情で余計なことを言ったり、本当に大事にしたいことを見失ったりする自分に気づき、目に入るところに自分を落ち着かせる言葉がほしかったのだと思います。

 そうやって、どんな時も一度立ち止まり、シンプルなところに戻って試行錯誤することを意識してきました。「目の前の子どもたちが、今どう学んでいるのか」を見ながら、その都度考えるということです。


 「何に引っかかっているのか」

 「どこで立ち止まっているのか」

 「何をおもしろがっているのか」

 「どうやってまた動き出そうとしているのか」


 …と、新しい言葉や考え方に出会いながらも、結局戻ってくるのはそこです。

 そういう時、私は先人たちの言葉を読み返したくなります。木下竹次が『学習原論』を書いたのは、今から百年ほど前のことです。子どもには本来伸びる力があり、学ぶ力を自ら発揮していく存在だと考えました。学習は生活から出発して、生活をよりよくしていくものだとも書いています。こうした先人の言葉には、「『子どもが学ぶ』ということをどう捉えるか」という問いがあります。今語られている教育の言葉をその問いに戻って考え直したいと思っています。

 この本で考えたいのも、まずは「子どもが学ぶ」ということです。学びは、「わかった」「できた」「進んだ」だけでは捉えきれません。うまく言葉にならない時間もあれば、遠回りしているように見える時間もあります。立ち止まっているように見えても、その子の中では何かを考えていることがあります。逆に、活発に取り組んでいるように見えても、学びの対象から離れてしまっていることもあるでしょう。子どもの学びを、目に見える動きだけで判断しないでいたいと思います。

 子どもの学びをそのように捉えると、教師がいつ、どのように関わるのかも問い直したくなります。そこで考えたいのが、タイトルにもある「教えるを急がない」ということです。

 ここで言う「教えるを急がない」とは、何もしないということではありません。教師としての判断を手放すこととも違います。子どもたちの学びの動きに先回りしすぎず、かといって、遠くから眺めるだけでもない…といった間で、教師の関わりを探っていくことなのだと思います。


 教えるか、教えないか。

 任せるか、任せないか。


 こうして関わり方を二つに分けて考えてしまうと、かえって苦しくなります。目の前の子どもたちの学びを見ながら、その都度考えていきたいものです。


 「今は直接伝えた方がよいのか」

 「もう少し待った方がよいのか」

 「問いを返した方がよいのか」

 「場を整えた方がよいのか」


 …といった行き来の中に、教師の仕事があるのではないでしょうか。

 子どもたちの学びをどう捉えるかと、教師がどう関わるかは、別々の話のように見えるかもしれません。でも、どちらも、目の前の子どもたちの姿から考えていくことなのだと思います。

 タイトルに「練習」とあるのを見て、どういうことだろうと思われた方もおられるかもしれません。「教えるを急がない」ことは、一度でできるようになれば終わるものではないと思っています。そこで、各節の終わりに、読んでくださった方がご自身の教室や子どもたちの姿に戻って考えるための「問い」を置きました。

 今さまざまなことに取り組まれている先生方の試行錯誤と重なるような一冊になればいいなと思います。本書を通して、読んでくださる方と一緒に「教える」「学ぶ」について考えていければうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。


  二〇二六年十月   /若松 俊介

著者紹介

若松 俊介(わかまつ しゅんすけ)著書を検索»

京都教育大学大学院 連合教職実践研究科修了,教職修士(専門職)。大阪府公立小学校,京都教育大学附属桃山小学校主幹教諭を経て,生駒市教育委員会事務局 教育部 学校支援課 教育政策室 主幹。「国語教師竹の会」事務局。「授業力&学級づくり研究会」会員。「子どもが生きる」をテーマに子ども主体の学びについて研究,実践を積み重ね,現在はいろいろな先生や学校と共に試行錯誤しながら探究をし続けている。

※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
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