- プロローグ
- 第一章 情報リテラシーと社会科授業の役割
- 一 情報リテラシーとは何か
- 二 情報リテラシーの構成要素
- 三 社会科授業の役割
- 第二章 魅力的な社会科授業を創る
- 一 「わからない」授業の問題性
- 二 魅力的な授業を創る教師のパフォーマンス力
- 三 魅力的な授業を創る教材研究力
- 第三章 情報リテラシーの向上をめざす社会科授業
- 一 情報リテラシーの向上をめざす10のポイント
- 二 情報リテラシーの向上をめざす学習モデル
- 三 情報リテラシーの向上をめざす社会科授業例
- (一) 情報読解を視点にした社会科授業
- CM(映像)を読解する社会科授業@
- CM(映像)を読解する社会科授業A
- イラストを読解する社会科授業
- (二) 情報発信・交流を視点にした社会科授業
- プレゼンで情報発信・交流をする社会科授業
- 情報倫理について考える社会科授業
- 第四章 社会科授業の改善につなげる評価
- 一 学力保障と成長保障のバランスを
- 二 求められるマネジメント力
- エピローグ
プロローグ
現代の教育では、内発的動機づけも外発的動機づけもなかなか効果が上がらないと言われている。
本来子どものもっている「知りたい」「わかりたい」という欲求や、「なぜ?どうして?」という知的好奇心を喚起する楽しい授業、つまり、内発的動機づけを意識した授業をしても子どもはなかなかついてきてくれない。その要因は、世の中に、授業の内容よりも、もっと楽しいと思うことや、おもしろい情報であふれているからだと言われている。
また一方で、物質的な報酬でつろうとしても子どもは実に豊かなくらしをしているので、子どもたちの欲求を満たすだけの物質的なものを提供することは学校ではできない。そこで、教師は、様々な子どもたちの学習場面で「よくできたね。」とほめても喜ばれるどころか、他の子どもからいじめられる対象になるということも聞く。そもそも現代の子どもたちの中で、勉強ができるという価値がどれだけあるのだろうか。勉強をする者とまったく勉強に興味のない者の二極化が進んでいるのではないだろうか。できる子はできるのだろうが、勉強をしたくないと思っている者も多いのが現状だろう。完全に二極化している中では教師も大変だと思う。テレビドラマの学園ものを例にして考えても様変わりしている。筆者が学生の頃は、主役は先生だった。でも、今では、生徒が主役だ。そして、昔は、演じる場所がグランドや海岸のように青空のもとの広いところだったが、今は、教室、部屋、カラオケルームのように、狭い、狭い室内になっている。広いグランドや海岸でボールを追いかけ、夕日を追いかけ……だったのが、高校生が運動部という設定もほとんどなく、放課後、フラフラと街をさまよう中で、いろいろな問題が発生しているという感じである。学園もののテレビドラマの設定だけを見ても世の中の価値観や見方が変化しているのがわかる。このような現状の中では、現代の教育は実にむずかしい時代になったと言えるだろう。
これまでの日本の教育界は、「教科の内容を系統的にしっかりと教える」という考え方と「子どもの興味・関心・体験を重視して、生活に結びついた学習をめざす」という考え方を両極として、振り子のように揺れ動いてきた。一九八〇年代半ばには、校内暴力、不登校、いじめ問題など学校の病理現象が顕著になり、子どもたちへの「詰め込み型授業」にその原因を求め、とりわけ教科学習と学校で多くのストレスにさらされた子どもたちへの対応として、「ゆとり教育」の登場となる。しかし、教育界内外からの学力低下論にさらされ、国際教育到達度評価学会や文部科学省・国立教育政策研究所教育課程センターの調査などの結果により、見直しが迫られ、「確かな学力」の育成が主流となり、現在に至っている。教育界に限らず、必要なことは、本質を見極める目とバランス感覚である。その時々の風潮に流され、教科内容が削減されたり、教科そのものが廃止されたり、統合再編されたりしたら、現場の教師や、子どもたちへの影響は計り知れない。ただ、振り子のように揺れ動きながらも、よりよい方向に向けて進んでいると信じたい。
現在、学校教育においては、子どもの側に立った教育を推進していくことが提唱され、子ども一人一人に自ら学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などの資質や能力を身に付けることを一層重視するとともに、子ども一人一人のよさや可能性などの個性を積極的に見い出し、さらに伸ばしていく教育を充実していくことが求められている。
このような流れの中で注目されているのが、「情報リテラシー」の育成である。情報リテラシーとは、情報化社会にあって、個々に対応した教育を推進していくために、コンピュータを始めとする情報関連機器を積極的に生かした教育活動の一層の充実に加えて、あふれた情報を読み解く力(=情報読解力)の育成を視野に入れたもので、情報を扱うための基礎的な知識や能力のことである。
情報リテラシーと言えば、すぐにコンピュータを使える能力、つまり、コンピュータ・リテラシーに結びつけられるが、大事なのは、操作方法ではなく「中身」の吟味である。社会科授業ではよく、一匹の魚そのものよりも魚のとり方を学ぶことが大事だと言われてきた。つまり、「学び方を学ぶ」ことが重視されてきたように思う。その考え自体は、間違いではないが、「学び方を学ぶ」ばかりに焦点がいき、社会科の本質を見失っていた場合が多かったのではないだろうか。とり方を学んでも、「中身」の議論がなければ情報の正当性は吟味できない。
筆者は、学生時代からコンピュータに親しんで、もう二十五年以上もコンピュータとかかわっている。その中で学んだことは、新しいテクノロジーが登場すると、コンピュータの操作方法を根本的に変えたり、せっかく覚えたものの意味がなくなったりすると言うことである。例えば、当初は、簡単なプログラミングも必要で、BASIC言語やMS―DOSなどの基礎的な知識を学んだものだが、アプリケーション・ソフトの普及によって、プログラミングの必要性はどんどん低下していった。そして現在では、誰でも簡単に操作できるコンピュータになっている。そこで問題になるのは、コンピュータの操作方法ではなく、コンピュータ以外の知識や能力が大きな比重を占めてくるということである。つまり、コンピュータ・ソフトの操作方法をマスターしていても、それだけではコンピュータはうまく使えないのである。テキストだけでなく図表やグラフ、写真などを入れてレイアウトを工夫したり、端的でわかりやすい文章を書くための作文のスキルなど、コンピュータ・リテラシーに加えて個々に情報を目的に応じて選択したり、加工・整理したりする過程が重要になってくるのである。コンピュータは、データを処理するだけのツールから、情報をもとにした意思決定や創造的な活動や表現としてのツールとなり、そこに結びつけていくために重要になってくるのが「情報リテラシー」の存在である。子どもたちが、メディアを中心とした数々の情報をそのまま受け入れるのではなく、批判的な検討を加えたり、他の別な情報と比較したりして、情報の使い手となる構えをもてること、ここに社会科の役割があると考えている。
これからの学校教育では、子ども一人一人の成長をめざし、子どもたちに基礎・基本を定着させるとともに、その学習を上昇させることを進め、一人一人の子どもの達成度合いを評価していくことが必要である。これまでの同学年の同クラスのすべての子どもたちに同じレベルの内容を同じような方法で習得するという均一的・画一的な教育から、一人一人の子どもが基礎・基本を定着し、それを活かす学習成長のための教育へと質的転換が求められている。これは、目的地を明確にしてすべての子どもをそこへ到達させる到達型の教育から、最低基準の達成を保障し、個に応じた成長型の教育への質的転換の必要性である。
本書は、この転換のための基軸として、「情報リテラシー」を視点に、社会科授業を改善していくための提案としてまとめたものである。このたび、江部満編集長のあたたかいおすすめにより、一書にすることができた。記して感謝の意を表す次第である。
二〇〇六年十二月 /關 浩和
-
- 明治図書