- はじめに
- 01 授業とはコミュニケーションである
- 02 音読のない国語授業は映画の予告編である
- 03 授業における時間の考え方
- 04 「一斉指導」をどう高めるか
- 05 評価という「数値」の魔力
- 06 「やらない」権利
- 07 学習環境とパフォーマンス
- 08 愛は歪んで伝わる、敬意はまっすぐ伝わる
- 09 学びとは学んでいる人からしか学べない
- 10 「できた」と「わかった」の話
- 11 自分で獲得したものが力になる
- 12 あなたの教えていることは間違っていませんか?
- 13 「見通し」や「振り返り」
- 14 授業計画は30分がいい
- 15 学びの促成栽培化
- 16 「自己責任」はおかしいよ
- 17 なぜ、テストを当日返すのか
- 18 早押しが求められる教室
- 19 足並みを揃えることの意味
- 20 子どもたちに「つっこまれる」先生が良い
- 21 学校教育をもっとシンプルに
- 22 Googleの20%ルールをあてはめてみる
- おわりに
はじめに
この授業論には、何の権威も根拠もありません。
僕はどの教育研究会にも所属していませんし、科学的なエビデンスに則って実践を積み重ねているというわけでもありません。日本のどこかの公立学校の片隅の教室で、ひっそりと教育について向き合い続けている一人の教師が、好き勝手に授業についての私見を述べているという、ただそれだけの文章です。
お忙しい教師の皆様がおそらくこの本を手に取ってくださっていると思います。だから、大切な時間を無駄にしないためにも、確認しておかないといけないことがあります。
それは、これから僕が述べている授業論は「現場の教育実践の主流」ではないということです。ここに書かれていることを、そのまま現場で運用してしまうと、あなたは周りの教師から「稀有な目」で見られるだろうと思います。しかも、あなたが「若手」であるなら尚更です。先輩の先生方は、あなたに「守破離」の話をするかもしれません。
「若いうちは、教育の基本に忠実な実践をしていきましょうね」
このように言われた経験のある先生方も多いのではないでしょうか。学校には、様々な「当たり前」が存在します。それは学校の外側にいる人たちからすると「ちょっとおかしいんじゃないの?」というものも数多く含まれています。それ自体は仕方のないことです。この本で一番言いたいことは「教育という営みはよくわからない」ということですから。
でも、科学の世界はこういうことを嫌いますよね。ましてや、現在、教育には社会から厳しい視線が注がれています。連日のように、「教育にかかわる人が不祥事を起こした!」というようなニュースが世間を騒がせています。学校の先生による不祥事は「マスメディアのご馳走」みたいです。世間の一部では、学校の先生を「聖職」と呼んでいることからも、他の職種の方々よりも「期待値」が高くなってしまうのでしょう。だからこそ、教育の世界には一層の「説明責任」が求められています。
説明責任とは、誰に対する責任でしょうか。校内でしょうか。いえいえ、その責任はむしろ「校外」の方々に対するものでしょう。そして校外の方々は「教育についてはあまり詳しくない」ことが多いです。
このように言ってしまうと反感を持たれる方もおられるでしょう。教育は誰もが受けてきているものですので、日本中の誰もが「教育についてはひと言、言いたいことがある」という状態です。でも、やはり教育のことは「よくわからない」から「わかりやすさ」を求める。わかりやすさとは、例えば「数値」ですね。数値はわかりやすい。同じモノサシで測っているから「比べる」ことができます。優劣がつけやすい。優れていれば褒章を、劣っていれば罰を与えればいい。
「わかりやすい」と「科学的」とは相性が抜群です。科学の世界は数学的処理を扱うことがほとんどです。そこには、職人の「感覚」とかの入る余地はありません。「感覚」は「わかりにくい」ですから。そして、教育は説明責任を求められて、どんどん科学的になっていきます。そういう部分が教育にもあることを否定はしませんが、教育があまりにわかりやすくなることに対して、僕は大いに危機感を感じています。
「わかりやすい」は「みんな同じ」という形で表現されることもあります。学校の先生がそれぞれ好き勝手に実践をしていると、その理由について、それぞれが「説明」しないといけません。しかし「みんな同じ」であれば、説明は次のひと言で済みます。
「これは学校全体の取り組みです」
学校現場で見られる「足並みを揃える」というのは説明責任への対策という側面もあるのかもしれません。
僕はまだまだ発展途上の修行中の一教師です。だから、自分のことを職人だとは微塵も思っていません。過去の偉大な教育実践家の方々は自身のことを「プロ教師」という言葉で表現しています。その境地はまだまだはるか彼方ではありますが、しかし、僕が考えてきたことをこうやって文章として表現して誰かに届けることで生まれる「科学反応」には期待しています(また科学が出てきましたね)。
現場には主流の教育実践がたくさんあります。教育書も同様ですね。でも、そうやって生まれる「一つの大きな流れ」に違和感を持つ人も必要ではないでしょうか。なぜなら「多様性」こそ、教育が持つべき強みだからです。「均質性」を求める先に「人間」は必要ありません。それはまるで工場のベルトコンベアーでの作業工程のように「マニュアル」が存在するからです。細分化された作業工程を忠実に守るだけであれば、すぐにAI技術に取って代わられてしまうでしょう。
もし学校が「学習内容を習得させる」だけの場所であるならば、GIGAスクール構想で一人一台が配備されたパソコンの学習アプリで十分かもしれません。個別最適な教材を瞬時に提供できるパソコンに、人間の教師は敵うはずもないでしょう。でも教育とはそんなに単純じゃありません。そして、学校の教育の根幹は授業なのです。
では、これから一緒に授業について考えていきましょう。思いついたことを、脈絡なく書き連ねていきます。その一部がみなさんの心にフックとして引っかかってくれれば幸いです。さて、どんな原稿になるのでしょうか。僕も楽しみです。では、また、あとがきでお会いしましょう。
2023年1月 /めがね旦那
「余白」があるからこそ、子どもたちに笑顔が生まれることを教えてくれる内容です。
学びとは、学んでいる人からしか学べないという部分はその通りだと思った。
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