教育改革選書1
教えることのすすめ――教師・道徳・愛国心

教育改革選書1教えることのすすめ――教師・道徳・愛国心

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「教える」の観点から、学校・教師の使命と役割を見つめ直す

著者は、私たち日本人は二度の「戦後」を経験していると指摘する。第一は昭和20年の敗戦。第二は1960年代から1970年代にかけての高度経済成長であると言う。「滅私奉公から滅公奉私」への変化は、日本人の価値観が「私生活優先」になったと問題視する。


復刊時予価: 2,728円(税込)

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電子書籍版: なし

ISBN:
978-4-18-295114-5
ジャンル:
授業全般
刊行:
対象:
小学校
仕様:
B6判 184頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

もくじ

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まえがき
T なぜ教師は「教える」のか
一 「教える」とはどういうことか
――大村はま氏から学ぶ――
1 「教える」ことは教師の責務
2 「教える」ことの意味
3 「教える」と「学び」の融合
4 「教師の本懐」とは何か
5 問い直されるべき学校・教師の役割
二 「教えること」と「研究すること」
1 教師観は「転換」したのか
2 「教えること」のできない教師
3 「教える」ために何が必要か
三 「考える」ことを「教える」
1 「教える」ことをしない教師
2 子供の主体性に寄りかかる教師
3 「教えること」と「考えること」
四 教師の「権威」と「教えること」の復権
1 教育研究の笑えない「惨状」
2 学校・教師の「権威」を低下させた教育政策
3 「教えること」と「研究すること」
五 「共に学ぶ」者としての教師
1 新教育基本法への低い関心
2 明確にされた教師の職責と使命
3 「共に学ぶ」者としての教師
六 教師の資質向上と「教育愛」
1 システム強化による対応策は有効か
2 「教育愛」が尊重されない状況
3 人格的感応を「楽しむ」ということ
七 継承されない「技」と「経験」
1 進む教員採用数の地域間格差
2 深刻な教員の年齢構成の「歪み」
3 大切な「技」と「経験知」の継承
八 「教える」ことを先人から学ぶ
1 林竹二の「教える」ということ
2 斎藤喜博の教師論・授業論
3 先人の業績に向き合うことの必要性
U なぜ道徳を「教える」のか
一 「教える」ことが道徳教育の基本である
1 燻り続ける教科化問題
2 「道徳の時間」への反対運動は何をもたらしたのか
3 「ゆとり」路線と道徳教育
4 道徳の授業に「感動」は必要か
二 道徳教育における「知育」の問題
1 道徳の授業と「心理主義」
2 道徳の授業の「心理主義」化と学習指導要領
3 「実践的三段論法」と道徳的知識
三 道徳の教科化と修身科
1 形骸化している道徳の授業
2 清算されていない修身科
3 修身科の功績を踏まえた議論の必要性
4 天野貞祐の道徳教科書論
5 道徳をきちんと「教える」ことが必要
四 道徳教育における「個性」と型
1 「個性」をどう考えるか
2 学校教育と「個性」
3 「個性」と「型」
五 道徳教育における「死者」の問題
1 吉田満氏の「問い」
2 靖國神社と戦後日本の欺瞞
3 「死者」を無視した戦後教育
〈コラム〉 道徳教育の「型」を示そう(向山洋一氏との対談)
V なぜ愛国心を「教える」のか
一 愛国心はなぜ教えられないのか
――戦後日本と愛国心――
1 戦後日本の社会と愛国心
2 戦後教育における愛国心
3 新教育基本法と愛国心
二 国家と正面から向き合うことの必要性
1 新学習指導要領に愛国心が明記されるのは当然である
2 愛国心はなぜタブーとなったのか
3 「ためにする議論」から真摯な議論の蓄積へ
三 新学習指導要領と愛国心・「規範意識」
1 教育基本法と新学習指導要領との関係
2 愛国心の問題をどう考えるか
3 新学習指導要領と「規範意識」
四 「公意識」ぬきの「教育新時代」でよいのか
――『文部科学白書(平成一九年度)』を読む――
1 「公意識」ぬきの「生きる力」
2 「公意識」ぬきの「規範意識」
五 いつまで「公」を敵視するのか
1 「国家論」不在の戦後
2 共同体意識から遊離した「個」
3 「他者」と繋がる実感が「規範意識」の基盤
4 戦後教育の中の「公」と「私」
5 脱却すべき「戦後教育観」とは何か
六 「公」を基軸とした生徒指導への期待
1 注目される「規範意識」の醸成
2 価値観は多様化しているのか
3 「世論(せろん)」に惑わず「輿論(よろん)」を立てる
七 愛国心ある国民の育成が教師の職責と使命
1 愛国心ある「国家及び社会の形成者」の育成
2 後退する「公」と肥大化する「私」
3 肥大化した「私」を「公」に結びつける
八 時計の針をまた巻き戻すのか
1 繰り返される愛国心への敵視
2 戦後日本の愛国心
3 愛国心とは「自国の歴史に対する共感」
初出一覧

まえがき

 一九四五(昭和二〇)年の敗戦から、私たちは二度の「戦後」を経験したのではないか。こうした思いが日に日に強くなっている。いうまでもなく一度目は敗戦である。敗戦に伴う戦後改革が、政治、経済をはじめとした社会システムの抜本的な改革を実現し、それが戦後社会の枠組みの基盤となっていることは否定できない。また、占領軍によってもたらされた「民主化」と「非軍事化」が、日本人の意識変革を促したことも事実である。

 そして二度目は、一九六〇年代から一九七〇年代にかけての高度経済成長である。現在の日本を読み解くためには、敗戦に伴う「劇的」な変化だけではなく、むしろこれに相乗された第二の「戦後」である高度経済成長の果たした役割を丁寧に読み解くべきではないのか、と思い始めている。高度経済成長が、日本の産業構造だけではなく、日本人の意識をも決定的に変化させたように思えるからである。高度経済成長を境にして、別の「日本人」が形成されたといえば、あまりに荒唐無稽な言葉遊びになりそうだが、私の実感としてはそれに近い。

 本書でもたびたび引用しているように、この変化を言い表すには、「滅私奉公から滅公奉私へ」(日高六郎)という表現が最もふさわしいように思える。日本人の価値観が、経済的な豊かさを手に入れることで「私生活優先」になり、それに反比例するように社会から「公意識」が急速に失われていった変化を正確に表現しているからである。もちろん、この変化は「敗戦」による価値観の転倒によってすでに形成されていたものであったが、高度経済成長による経済的な豊かさの享受は、日本人の意識変化を決定的なものと作用したといえるであろう。

 この変化は、教育において顕著に可視化される。経済的な豊かさは、学校、地域、家庭の関係をも「劇的」に変化させたからである。都市化が進展し、地域社会が徐々に解体されていく中で、高校への進学率が九〇パーセントを超えた一九七〇年代後半から、いじめや校内暴力、非行の増加といった「教育荒廃」が教育界を覆っていった。これに伴って、これまで社会の啓蒙的な役割を果たしてきた学校の風景は急速に色褪せていく。学校・教師の旧態依然とした「管理」と生活指導は、「教育荒廃」という事態に対処できないとして厳しい批判に晒され、いわゆる「学校たたき」と「教師バッシング」という状況が社会に広がっていった。経済的な豊かさを手に入れたことで日本人の意識構造が大きく変化したことに気づかず、「教育荒廃」の原因は、もっぱら学校の強制的な「管理」と教員の資質の問題に還元されていったのである。

 「教育荒廃」の現実の前に、一九七七(昭和五二)年の学習指導要領は、「ゆとりと充実」をスローガンに掲げ、教育行政は「ゆとり教育」へと舵を切っていく。一九八〇年代に入ると、学校と家庭の関係は大きく逆転し、家庭の方がその力関係において優勢となることで、学校と教師の権威は著しく低下していったのである。

 こうした状況は、一九九〇年代に入るとより助長されていく。特に、一九八九(平成元)年学習指導要領が「新学力観」を掲げて以降、教師は専門職というよりは、教育サービスの供給者として、教育の受け手(顧客)の満足度を高めることを強いられてきた。学校は親・地域に対しても開かれた存在でなければならず、教師は教育者から「支援者」へと位置づけられた。そしてそれは、一九九八(平成一〇)年の学習指導要領が「生きる力」を掲げることで学校・教師は家庭への従属を強め、その権威はさらに低下していくのである。

 しかも、こうした学校・教師の権威の低下には、教育行政も大きく手を貸している。中央教育審議会の答申をはじめとして、学級崩壊、不登校、いじめなどの複雑化する教育問題の全ては、「教師の資質向上」で解決できるといわんばかりの乱暴な議論が繰り返されていることは周知の通りである。また、各種の答申やメディアでは、「教師力」や「授業力」といった抽象的な造語が氾濫し、教師には児童・生徒との「コミュニケーション能力」や地域や保護者に理解を求める姿勢が殊更に強調されている。「創造性や自ら考え、表現し、行動する力」や「生きる力」といった抽象的な目標や理念が声高にされる一方で、教育行政は、これを実現するための具体的な手段や方法を講じることなく、もっぱら「教師の資質向上」という抽象的な言説によって「教育荒廃」を解決することをめざすかのようである。

 もちろん私は、学校の取り組みや教師の指導力に問題がないといっているわけではない。しかし、一九七〇年代後半からの「学校たたき」と「教師バッシング」が一般化し、教育行政も学校・教師の権威を担保しない政策を次から次へと打ち出す中で、学校・教師が子供を教育することに萎縮してしまうことは明らかである。しかも、社会全体が「私生活優先」になり「公意識」が失われていく状況にあっては、学校・教師の委縮は、そのまま公教育としての役割と性格を歪めてしまうことになるはずである。

 改めていうまでもなく、学校は高度な公共性を持つ機関であり、教師は、子供を一人前の「国家及び社会の形成者」とするための使命と責任を直接に担っている。この使命と責任を十分に果たすことができる資質と力量が教師の専門性といってもよい。

 ところが、特に一九九〇年代以降は、教師は教育者から「支援者」へと位置づけられ、ともすれば教育は、「サービス」とされるような状況の下では、子供を一人前の「国家及び社会の形成者」とするという学校・教師の社会的な役割は後退を余儀なくされつつある。いわば、学校・教師の公的な役割は、「私生活優先」の経済的な論理に丸呑みされかねない状況が現実のものとなっている。教育が公共的な性格を弱めていることは、子供たちの「規範意識」の低下が問題視され、教師が「モンスター・ペアレンツ」のクレームに怯えながら、せいぜい「訴訟保険」に加入することでしかわが身を守ることができない昨今の状況を見れば明らかである。「公意識」の失われた社会の中で「規範意識」が育つはずがないし、子供たちの教育に萎縮してしまっている学校・教師が「私生活優先」の「モンスター・ペアレンツ」に対抗できるはずはない。

 そして学校・教師の権威の低下は、「教える」という教師本来の役割にも深刻な影を落としている。教育に対する学校・教師の委縮は、何より「教える―教えられる」という教育の基本的な関係性をも変質させてしまうからである。私たちが現在の学校で目にするのは、「教える」という当然の教育的な行為に躊躇し、自信を失くし、ついには、「教える」ことから逃避してしまっている「支援者」としての教師の姿である。

 たしかに、「教える」ということは簡単なことでも単純なことでもない。しかし、「教える」ということから目を叛けて教育することは本来的に不可能である。それは、子供を一人前の「国家及び社会の形成者」にするという学校・教師の社会的な使命と機能を放棄してしまうことを意味している。

 二〇〇六(平成一八)年に教育基本法が改正され、これに基づいて二〇〇八(平成二〇)年には学習指導要領も改訂された。新学習指導要領は、「ゆとり教育」から転換し、学力重視の方向へと移行しているようにも見える。しかし、学校・教師の権威を担保する方策は示されておらず、その公共的な社会的役割が強調されているわけではない。

 本書は、こうした状況を視野に入れて、これまで雑誌等で発表した論稿を整理し、特に「教える」ということをキーワードにしてまとめたものである。テーマ別に三つの章に分けて整理しているが、本書でいいたいことは一貫している。「滅私奉公から滅公奉私へ」という社会変化が確実に実現されつつあり、学校・教師の公共的な社会的役割の機能が衰退しつつある状況の中で、学校・教師は、子供を一人前の「国家及び社会の形成者」にするという使命と役割に立ち戻る必要がある、ということである。

 「私生活優先」という経済的な論理が社会全体に浸透し、「公意識」という言葉すらが時代錯誤の「化石」になりつつある時代にあって、学校・教師の公的な社会的機能を説くことがいかに困難かは重々承知している。「蟷螂の斧」という言葉が頭を駆け巡るのも事実である。しかし、教育が経済的な論理に際限なく侵食される状況はどう見ても危険でもあるし、この危険を回避するためには、経済的な論理とは違う教育の論理を敢えて打ち立てるべきであると強く思う。それは、いわば「私」を「公」に結びつけ、「私」を「公」に拓く回路を意図的に設定することであり、ここでは、社会における主要な公共的な場が学校であり、社会的な役割と使命とを担うのが教師であることを確認することが必要となる。つまり、そのために学校・教師は、あくまでも「公」の立場に踏みとどまることで子供と保護者に対峙し、特に教師は社会的な役割と使命を担うために自らの専門性を高めるための努力と精進を続ける必要がある。本書のいいたいことは、こういうことになる。

 もっともこのことは、ごくあたりまえのことであり、教育基本法でも明記されている。「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うこと」(第五条)が、義務教育の目的であり、この目的を実現するために教師は、「自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」(第九条)のである。学校は、「国家及び社会の形成者」たる国民を育成し、教師はそのための専門職であることを社会が前提として受け入れることから議論を始めなければ教育の再生はあり得ない。


 さて、本書の刊行を強く勧めて下さったのは、明治図書出版株式会社相談役の江部満氏である。江部氏には、これまでにも『現代教育科学』誌等でたびたび執筆の機会を与えて頂いてきた。「教える」ことを本書のテーマにすることは、江部氏のご提案である。雑誌等では、与えられた課題について意識せずに書いてきたが、たしかに「教える」ことをテーマにすれば、それぞれの原稿に繋がりが出てくる。一冊にまとめることで、改めて、なるほど自分のいいたいことはこういうことだったのか、と確認することができたのも江部氏のお蔭である。プロの編集者としての慧眼に敬服すると同時に、日頃の感謝を込めて心よりお礼申し上げます。また、本書の編集には井草正孝氏にお世話になりました。『現代教育科学』誌をはじめ、いつもお世話になっている井草氏に編集の労をとって頂くことで心強く作業を進めることができたことに感謝致します。

 本書には、一昨年の暮れに行った向山洋一氏との対談をコラムとして転載させて頂いた。本書への転載を快くご承諾頂いた同氏にお礼申し上げます。

 なお、本書をまとめるにあたっては、既発論文の内容に大幅な修正を加えることはしなかった。そのため、内容に重複があることをお断りしておきたい。それでも、表現等の修正や資料の確認には予想以上の時間を費やしてしまうことになった。その修正作業を丁寧にサポートしてくれたのが大学院生の玉澤怜奈さんである。ありがとう。


  二〇一〇年三月   /貝塚 茂樹

著者紹介

貝塚 茂樹(かいづか しげき)著書を検索»

1963年茨城県生まれ。筑波大学大学院教育学研究科単位取得退学。国立教育政策研究所主任研究官等を経て現在は武蔵野大学教授。専攻は日本教育史,道徳教育。博士(教育学)。

※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
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