授業改革理論双書2
思考し問答する学習集団
―訓育的教授の理論(増補版)

授業改革理論双書2思考し問答する学習集団―訓育的教授の理論(増補版)

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授業づくり(陶冶)と学級づくり(訓育)とを統一的にとらえ,両者の相互的な交流・関連を図り「活動し問答」することで学習集団が成立する。


復刊時予価: 2,882円(税込)

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電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-220813-7
ジャンル:
授業全般
刊行:
対象:
小・中
仕様:
A5判 206頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

もくじの詳細表示

はじめに─増補にあたって、思うこと
まえがき
序章 学習集団の人間学─授業が成り立つ、その知の位相
一 授業を変える─応答し合う「相互作用の知」として
二 授業─その「ことの現実(アクチュアリティ)」を捉える五つの位相
1 「見る─見られる」相互的表情(まなざし)関係
2 身(み)に「ふれる─ふれられる」相互身体的関係
3 「語る─語られる」相互主体的関係
4 「呼びかける─学びとる」呼応的関係
5 「問いかける─選びとる」ドラマ的関係
三 子どもを「現在の視点」で捉える
1 「矛盾の現在」を生きている子ども
2 「もう一人」の自分への励まし
第T章 授業における陶冶過程と訓育過程の統一
一 陶冶と訓育の統一
二 授業の目標=内容次元における陶冶と訓育の統一
三 授業展開の次元における陶冶と訓育の統一
第U章 授業の成立と学級集団の質
一 三つの集団観
1 管理的集団=能力主義的な集団
2 適応的集団=平均的民主主義
3 自治的集団=規律を創造する集団
二 「自然」発達の幻想性
三 論争的主体の成立
第V章 学習集団の課題
一 「学習集団」の規定をめぐって
二 授業における認識過程の特質
三 認識過程と学習集団
四 作用関連としての授業
五 「わかる授業」の構造
第W章 学習集団の指導過程
一 教授=学習過程としての授業
二 「伝達する」教師のリーダーシップ
三 「援助する」教師のリーダーシップ
四 対象(Object)としての子どもから主体(Subject)としての子どもへ
五 「組織する」教師のリーダーシップ
六 知的行為の組織化
七 知的行為のための訓育の論理─陶冶と訓育の統一をめざして
八 探究学習と学習集団
九 規律と問いの組織化
十 学習規律の組織化
1 全員参加・発言を保障するということ
2 自主・共同の学習体制をつくるということ
十一 「問い」による思考の組織化
1 集団思考=討議を深化・発展させるということ
2 認識を変革・発展させるということ
第X章 発問と集団思考
一 言語における人間の自己生成
二 対話と討論と問答
1 対話
2 討論
3 問答
三 発問と「方法の論理」
四 問いにおける専制主義と放任主義
五 「接続詞」のある授業
六 教師の問いの本質
第Y章 教師の指導性と子どもの自己活動
一 授業における「集団」の問題
二 「伝達」と自己活動
三 子どもの学習における二つの特質
四 教科内容の指導と自己活動─その接点としての否定(ゆさぶり)発問
第Z章 教材と能力と学力
一 「よい教材」の条件と学習集団
ニ 才能と学力の概念─ドイツからの示唆
三 学力の構造
1 学力の個性過程的構造
2 学力の相互作用的構造
あとがき

はじめに─増補にあたって、思うこと

 本書は、拙著『訓育的教授の理論』(一九七四年)に、序章「学習集団の人間学」を、今回、新しく書き加えて、増補版として出版されることになりました。

 旧版第八章の「西ドイツ教授学研究の方法論」は、思案を重ねたすえ、今回は割愛することとし、誤字、脱字の訂正と若干の改行を加えた以外は、何らの修正なしに刊行することにしました。

 本書のタイトルは、『思考し問答する学習集団』ということに決着しました。そうすることが、『旧版』で、わたしが主題として思想していたものを「現在化」して、よりひろく、より多くの方々に、適切に訴えることができる、と考えたからです。

 率直にいって、『旧版』を読みかえして、現在、修正しなければならない箇所はない、もちろん、論述の不十分な点や、具体的な説得力に乏しい部分はありますが、授業論や学力観や指導論の知のあり方に関しては、何ら改正する必要はない、いや、もっといえば、それらは、今後の時代において、いっそう推進され、発展させられるべき知の方向であり、課題だ、とわたしには考えられます。

 本書で、わたしが論述していること、とくに訴えたいと考えていることを、簡単に要約してみると、それは、次の三つのテーマになります。


 第一は、授業づくり(陶冶)と学級づくり(訓育)とを統一的に捉え、両者の相互的な交流・関連を図り、実現することで、「活動し、問答する」学習集団論が構想されなくてはならない、ということです。

 従来から、とくに『旧版』を出版した当時には、授業ではもっぱら陶冶(知識・技能の系統的習得)を、教科外の自治的集団づくりにおいて訓育(行為・行動の指導)を行う、という二元的分離論が存在していた。授業と学級づくりとを分離して、それぞれに、陶冶と訓育とを機械的に分割・分担するといった理論および実践なのです。

 両者を二元的に分離することの強調、その結果は、各教科の授業は、教科内容や知識・技能の一方的な伝達・注入に傾斜し、他方、訓育は、もっぱら、教科外における子どもたちの自治=自由に委ねられることとなり、実践的には、両者ともに形式化、空洞化を招くことにもなりました。

 学級づくりが授業を変え、授業づくりが学級を変えるのです。

 まなざしで向かい合い、応答し合う相互作用を学級につくりだしながら、それによって同時に、真理・真実を互いに追究し、問答する学習集団としての授業を創造することができるのです。

 また、授業を知識・技能の伝達・注入としてではなくて、互いに応答し合い、問答する学習集団としていくこと、そのこと(現実)の一こま、一こまは、まさに、学級づくり、集団づくりの仕事の内実にほかならない、といえるのです。

 今後、「共同的・体験的学習」をどう捉え、どう発展させていくか。その課題に応えるためにも、われわれの学習集団論の再構築と新しい展開がのぞまれているのだ、とわたしは考えています。

 第二には、学力観に関することです。

 わたしは、本書で、西ドイツ(当時の)の教授学にも学びながら、「学力の構造」を、次の二つの規定で捉えています。

 ○学力の個性過程的性格

 ○学力の相互作用的性格

 学力構造を、右の二つの性格をもつものとして捉えるという観点は、今日、主張されている「新学力観」と共通しているのです。つまり、個性的な思考力・判断力・表現力、そして自己学習力ということ、それを学力構造として特徴づければ、右のように二つの性格として規定できる、と思うからです。

 今後における課題は、そうした学力を、いかなる授業指導によって、一人ひとりの子どもたちのものにしていくことができるか、ということです。

 その点でも、本書でのべている「集団思考の組織化」論や「学習集団形成」論には、大きく貢献することのできる知と技術が存在している、と考えています。それらを、さらに再構築しながら、実践的に豊かにしていかなくてはならない時だ、と思うのです。

 最後に、第三のテーマとして、教師の「指導」とは何か。「指導性と子どもの自己活動(自主性)」の関係を、どう捉えるかという問題です。

 本書において、わたしは、教師のリーダーシップのあり方を、次の三つに区別して、詳しく論述しています。

 (1)「伝達する」教師のリーダーシップ

 (2)「援助する」教師のリーダーシップ

 (3)「組織する」教師のリーダーシップ

 知識を「伝達・注入する」リーダーシップも、また、子どもの自発活動(自主ではない)を、ただ「援助・見守る」リーダーシップも、ともに観念論的な考え方であり、それでは、子どもたちの主体的で、能動的な学習行為を導きだすことはできない、と述べています。

 前者の場合には、子どもは「伝達・注入」の対象とされているからであり、後者の場合には、子どもは、「援助・慈恵」の対象とされているだけなのだからです。両者は、一見、相対立した違った考え方のように思われる。しかし、そうではない。両者において、子どもは、ともに、「対象」つまり、「お客さん」として捉えられているのです。

 子どもたちを対象=客体(お客さん)としてではなくて、学習活動の主体(主人公)に育てあげるためには、自主共同の学習規律や発問による集団思考=問答過程を「導き、組織する」教師のリーダーシップが、どうしても不可欠であることを詳しくのべています。

 子どもたちを、真に「学習主体」として育てるためには、「伝達」でも「援助」でない、「導き、組織する」教師のリーダーシップこそが、決定的に重要だ、とわたしは考えているのです。


 現在、わが国の実践現場では、新しい学力観に立つ教育ということで、「指導」概念が揺れ、動き、混乱を招いているようです。

 「指導」は止めて、「援助・支援」に徹すべきだ、「指導案」ではなくて「援助・支援案」に書きかえなくてはいけないとか、「教師中心」「教師主導」から「子ども中心」「子ども主導」への一八〇度の転換とか、いうことが唱導され、「教師の指導」がタブー視されている状況が生じているようです。

 「指導」という、教育実践にとってのもっとも中心的なキーワードが混乱し、揺れているのです。

 このような混乱を憂慮してか、相澤秀夫氏(文部省初等中等教育局教科調査官)は、最近、次のような傾聴すべき見解を示されています。

  (『授業研究21』94年12月号臨刊)


 教師の様々な働きかけを明示することが大切である。授業場面の「どこ」で「どのような働きかけ」を「なぜ」行うのかを、明確にとらえ、指導案に記述することが求められる。……

 もちろん、新しい学力観に立つ教育において、教師の働きかけは、支援だけではない。発問があったり、指示があったり、確認があったり、また、ときには注意や叱責があったりする。こうした教師の働きかけを、学習指導の展開の中で、いつ、どのように行うか。また、なぜかなどを明らかにしておく必要がある。……

 なお、新しい学力観に立つ教育を矮小化してとらえ、支援はするが指導はしてはいけないと誤解している場合がある。これは間違いである。……


 「指導は止めて支援を」というのは、間違いであり、「教師の働きかけを明示」すべきだ、という相澤氏の見解に、わたしは安心もし、まったく同感なのです。

 子どもは「伝達・注入」の対象でもない、また、「援助・支援」の対象なのでもない。子どもたちは、「自ら学ぶ意欲・関心」の主体であり、「思考し、判断し、表現する」主体者でなくてはならないのです。

 子どもたちを「学習主体」として育てあげるためには、かれらの身にかかり、内面をゆさぶる、教師からの一貫した働きかけ、呼びかけ、問いかけが不可欠に重要なのです。「教える─学びとる」呼応の弁証法(ドラマ)が、忘れられてはならないのです。

 今日、わが国の初等教育は、世界の最高水準に達している。その水準低下を招かないためにも、「指導」とは何か。それの「知と技術(アート)」を究明し、確立することが、教授学=授業論研究の現下の課題だ、とわたしは切実に考えているのです。

 本書出版の意図の一つは、その課題に応えたい、ということでもあります。ひろくご批正、ご意見をいただきたいと願っています。

 最後に、本書の出版を勧め、励ましていただいた江部満編集長のご好意と友情に対し、心から感謝いたします。


  一九九五年(平成七年)五月 神戸市須磨にて /吉本 均

著者紹介

吉本 均(よしもと ひとし)著書を検索»

広島文理科大学教育学科卒業、教育方法学・教授思想史専攻、神戸女子大学教授、広島大学名誉教授、教育学博士、前日本教育方法学会長

※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
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      明治図書
    • 学びの継続
      2024/2/13たー
    • この本が再販になるのを楽しみにしていました。
      2023/10/21ネッピー
    • 新しい教育が注目されているからこそ、先人から学ぶ意義があると思います!
      2023/10/1のーす
    • 先輩がおすすめしてたので!
      しかし、代引きのみはキツい。
      2021/11/11
    • きっと今だからこそたくさんのヒントがあると思います。
      2021/8/17まるに

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