- まえがき
- 一 戦前にみる部落の学力状況
- 1 戦前の学力――前期
- 2 戦前の学力――後期
- 3 その性格
- 二 戦後に表出した学力動向
- 1 戦後の実態調査
- 2 「答申」前の学力
- 3 「答申」の語る学力問題
- 4 「答申」後の学力
- 5 最近の学力状況
- 三 「解放の学力」を追って
- 1 その全ぼう
- 2 なぜ学力問題に集中したか
- 3 出発――その二つの道
- 4 「解放の学力」とは何か
- 四 「解放の学力」論前後
- 1 学力論前史
- 2 学力論争の注目点
- 3 論争の分解現象
- 4 学力構築の焦点
- 五 学力を決定する要因は何か
- 1 部落の子どもたちの学力構成
- 2 学力にあらわれた差別
- 3 学力にあらわれた解放の思想と行動
- 4 部落解放と学力形成
- 六 学力の構造――その全ぼう
- 1 文部省版「新しい学力観」
- 2 学力のもつ構造
- 3 主体的能力をめぐって
- 七 「自立感」をどう育てるか――その課題
- 1 その育成地盤
- 2 育成の観点
- 3 新しい出発のために
- シンポジウム・新しい学力論をめぐって
- 提案1 教師たちの学力への関心 /長尾 彰夫
- 提案2 〈学・心〉二言論の克服にむけて /池田 寛
- 討論 いまの教師の学力対応は/ 「解放の学力」論はどこで屈折したか ほか /森 実 /中村 拡三・司会=辻 玄子
- あとがき
まえがき
この書は、解放教育として私の学力論を展開している。解放教育といっても、何やら不明の人がいぜんとして多い。それは何か。どんな性格をもっているのか。まずはそのあたりから語らなくてはならないだろう。
子どもたちも含めて、わが国の民衆は民衆一般では決してない。「民主主義」「自由」「平等」などといわれるのは表看板であり、現実には多様な差別があり、もちろん、貧困をともなう。部落差別・障害者差別・民族=外国人差別・性差別などなどあげきれるものではない。これらの人びとが自立と解放を求めてやまないのは当然である。
これらの差別の中で典型的なのは部落差別である。日本の社会はタテ軸が強いといわれている。そのタテ軸の中心部分が天皇制なのだが、この天皇制の対極にあるのが被差別部落である。部落差別はぬきさしならない強固な存在であり、他、多様な差別は、部落差別を核心としてつくりだされた感がある。そうであるだけに解放運動も熾烈であり、かつ早かった。一九二〇年代初頭から「日農」「コミンテルン日本支部」より先がけて全国水平社を創立している。解放教育は部落解放運動はもとより、多様な解放運動とともに歩んでいる。
さらに重要なのは、解放教育のもつ位置である。日本のタテ軸社会の上層部、ないしはそこに自己を託す部分は明るく、かつ輝いていると自認している。だが底辺におかれた部分は、暗いとされている。解放教育は、もちろん後者に自己をおく。明るい部分は暗い部分が見えない。見ようともしない。が、暗いとされる部分からはすべてが見える。教育運動全般の礎石といってよいだろう。
この書は当初『学力との格闘』と名づけていた。私にとっては不勉強のうえに不明の点が多く、まったく格闘だったが、友人何人かにいわれたものだ。何との、だれとの格闘なのだと。君自身か、文部省なのか、といったもの。学力問題の中身にしても、これはどうだ、あれはどうだとなる。そうこうしているうちに一年もたってしまった。
ところが、歳月人を待たずとか。つい私のうっかり話なのだが、突如、ガツンときた。小・中学校の「新学習指導要領」の出現である。考えてみると、前の学習指導要領が出されてほぼ一〇年になる。この書は当時の学習指導要領に対しながら学力問題を追っている。さて、となる。
何はともあれ一読してみる。なるほどと思うのは、前要領同様、ことばだけが並べられている。内容になると「総合的な学習の時間」が新設されている。これが目玉らしい。学習内容の三割減もきわだっている。だが「総合的な学習」はよいとして「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断」することがいまの子どもたちにできるのかどうかだ。自ら学ぶにしても自ら考えるにしても、殺人さえ何気なくやってしまう子どもたちがいかに多いことか。「自ら」自体が通用するとは考えられない。学習内容を三割減にしようが五割減にしようが、登校拒否・不登校、ごく最近では学級崩壊と、学習そのものを受けつけられない子どもたちが充満している事実が露呈しているではないか。
文部省にいわせれば、おそらく総則の冒頭にあげているではないかとなるだろう。つまり「教育活動を進めるにあたって」「児童に生きる力をはぐくむことを目指し」てと。では「生きる力」をどう育てるのか。それには何もふれていない。まったくことばの羅列にすぎない。
解放教育といわないまでも、いまの教育活動の最大のポイントは、子どもたちの主体的能力があるかどうかだ。ない、としたらどうしたらよいのか。歪んでいるとしたら、どこがどうなっているのか。その手だてだ。
世は世紀末だといわれている。文部省の世紀末は自業自得というもの。だが、子どもたちには未来がある。彼ら彼女らの未来を消滅させてはならないのではないか。私は確たる学力論の確立からそれを追いたいと考えている。
一九九八年一二月 /中村 拡三
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- 明治図書