- まえがき
- T 今なぜ,総合学習なのか
- 1 教科主義の立場から反省する
- 2 総合学習の立場から主張する
- 3 子どもの学習意欲を喚起するために
- U 総合学習の源流はどこにあるか
- 1 家庭や地域社会の「生活」と結びつける
- 2 ウェービング手法によって興味・関心を結びつける
- 3 専門化・断片化を反省する
- 4 現代的課題に応える
- V 知識はどこへいってしまうのか
- 1 “這い回る経験主義”批判に答える
- 2 機能的、質的学力観をもつ
- 3 知識は問題解決のための手段である
- 4 子どもこそ学習活動の主体者である
- W 誰が学習活動を統合するのか
- 1 全体は部分の総和ではない
- 2 統合の主体は子どもである
- 3 知育と訓育を統合する
- X これまでにどのような総合学習を試みてきたか
- 1 総合学習のタイポロジー
- 2 「教科」総合学習
- 3 「合科」総合学習
- 4 「学際的」総合学習
- 5 「トピック」総合学習
- 6 「興味・関心」総合学習
- Y いくつかの総合学習の実践事例
- 1 「合科」総合学習の事例
- 2 「学際的」総合学習---「教科横断型」の事例
- 3 「学際的」総合学習---「教科分担型」の事例
- 4 「トピック」総合学習の事例
- 5 「興味・関心」総合学習の事例
- Z 総合学習をどこからどう始めるべきか
- 1 特別法動の領域から始めよう
- 2 教科学習を発展・充実させる
- 3 教科と教科の関連をはかる
- 4 クロス・サブジェクトを考える
- 5 個人プロジェクトの機会をつくる
- 注
まえがき
中央教育審議会の答申の中で「総合的な時間」を設けることが述べられて以来、にわかに総合学習についての関心が高まっています。しかし、よく考えてみると、一体どれだけの人が総合学習---ここでは「総合的な学習」を含めて---を理解し、また今日まで実践してきたというのでしょうか。改めて言うまでもなく、今日までの指導内容は教科、道徳および特別活動の三つの領域の中にあるのです。したがって、「教科」指導はあっても、「総合」学習はなかったのです。すなわち、現実はすべて「教科」でおおわれていると言って過言ではないのです。もちろん、文部省には「教科調査官」がおり、教育委員会や教育センターの指導主事は「教科」ごとに仕事を分担しています。さらに、教育大学や教育学部の教師も、「教科」ごとに指導を担当しています。当然と言えば当然ですが、教科書も「教科」ごとに作られていますし、授業も「教科」ごとに行なわれているのです。こうした状況の中にあって、一体どれだけの人が総合学習を理解し、実践してきたというのでしょうか。答えはきわめて否定的です。この厳然とした事実にぶつかる機会がありました。とても反省させられたものです。
それは本年六月末に高知大学で行なわれた日本カリキュラム学会研究大会のときでした。「総合学習の可能性と限界」というテーマでシンポジウムが開かれました。シンポジストは東京大学の佐藤学氏、鳴門教育大学の村川雅弘氏と私の三人でした。司会は大阪教育大学の長尾彰夫氏と東京学芸大学の浅沼茂氏でした。
そもそも、私にはシンポジウムのテーマが問題でした。「可能性」が先には来ているのですが、最初から「限界」とついているのです。シンポジストの誰が「可能性」を主張し、誰が「限界」を指摘するのか、と考えていました。私が「可能性」を主張する側にあることは周知のことでした。他方、佐藤氏の書かれたものを読む限り、氏はアメリカでの「活動主義のカリキュラム」について詳しく述べられているのです。また、村川氏は生活科を強力に推進し、本も書かれているのです。一体誰が「限界」について指摘するのだろうと思っていました。
シンポジストの提案が一巡りしたところで、私は佐藤氏に「あなたの位置をはっきりしてほしい」と言いました。氏の提案には次のようにあるのです。「『教科学習』と『総合学習』も、ともに『知識』と『経験』を構造的に組織した学習である。両者の違いはその組織の様式にある。」続いて「『総合学習』の中にはさまざまな『知識』あるいは『経験』が『渾然一体』となった『体験』を理想とする傾向も存在している。しかし、それは『学習(学び)』の名に値しないものと私は考えている」と。正直なところ、この氏の主張がわからない。私は両者を「目的と手段」というコンセプトのもとで、しっかり区別する立場にあるのです。
いずれにせよ、私の質問に答えて、私の記憶が正しければ、氏は「自分は総合学習にあまり賛成ではなく、教科の境界を『越境』する程度でいい」と言う。すなわち「境界線を出入りする」程度でよいと主張したのです。まさに、「教科主義」からの主張なのです。そして、また私の記憶が正しければ、その理由として氏は「二一世紀に学問がどのようなものになるのかまだ確定していないから」と言うのです。これで氏の位置がはっきりしたというものでしょう。
このシンポジウムには日本の代表的なカリキュラム研究者が参加していました。きわめて印象的だったのですが、ほとんどの研究者が、私のひけ目でしょうか、佐藤氏の「教科主義」に傾いていった気がしました。「やっぱり東京大学の教授の主張が正しい」といった雰囲気でした。私はこの時程強く東京大学のもつカリスマ性を感じたことはありませんでした。当然と言えば当然でしょう。参加している多くのカリキュラム研究者は大学では「教科教育」を担当しているのですから。自分の敷いているザプトンを、たとえ薄くて座りごこちが悪くとも、自分から「引きずり取る」バカはいないのですから。
明らかに「子どもたち」を学習活動の中心に置く思想に欠けているのです。「まず、子どもありき」です。総合学習をめぐって、児童中心主義の思想を吟味し、実践をふり返って見るべきです。本書がこのことに貢献できれば幸いです。
最後になりましたが、相変らず予定より大幅に遅れ、明治図書の樋口雅子編集長にはご迷惑をかけました。編集部の皆さんには大変お世話になりました。ここに感謝の意を表します。
一九九七年八月 著 者
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明治図書















