オピニオン叢書29
議論の技を学ぶ論法集

オピニオン叢書29議論の技を学ぶ論法集

投票受付中

議論指導の出発点としての基本的な論法,定義・類似・譬え・比較・因果関係の五つについて事例で議論技術の鍛練を説く。まずは基本の力を!


復刊時予価: 3,157円(税込)

送料・代引手数料無料

電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-165904-6
ジャンル:
授業全般
刊行:
対象:
小・中・高
仕様:
B6判 244頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

もくじ

もくじの詳細表示

序――議論の技を学ぶ
一 定義
1 最も必要なことだけの定義
2 説得的定義――論証的定義
3 定義としての名づけ
4 反論に関する若干の注意
二 類似
1 正義原則
2 暗示的人格攻撃
3 相手の主張を不条理に帰結させる論法
4 その他のヴァリエーション
5 反論の方法
三 譬え
1 関係の誇張
2 論争の武器としての笑い
3 価値の転移による効果
4 譬えの脆弱さと反論の方法
四 比較
1 a fortiori――より強い理由によって
2 勿論解釈とその応用
3 反論の可能性――誰にとっての「より」なのか
五 因果関係
1 これは「論法」か?
2 原因による正当化
3 結果による正当化
4 反論の方法
あとがきにかえて――高専柔道と学問

序―議論の技を学ぶ

[一] 本書は、議論指導に関心のある教師に、指導のための補助資料を提供するという目的のもとに執筆されたものである。

[二] 最近、ディベートや討論など、議論領域に属する活動の重要性が指摘され、その実践も盛んになってきている。そのこと自体は大いに結構であり、喜ばしいことであるが、一般的に見てそれらの指導には大きな欠点がある。それは、そこでは議論という活動を体験させることが授業の主たる目的となってしまっていて、議論に勝つための具体的な技はほとんど教えられていないということである。意見を主張する時には、ただ言いっぱなしではいけない、必ずそれを支える根拠をも述べなくてはならない、論証しなくてはならない――このようなことはどの教師でも指導していることなのであろうが、肝心の論証の方法やその種類についてはほとんど(多くの場合には全く)教えていないため、生徒は無手勝流で議論することになる。これを譬えると、柔道で、大外刈りや十字固めなどの個々の技を全く教えずに乱取りばかりやらせているようなものだ。多少の組み手勘は身につくかもしれないが、技術の進歩は望むべくもない。同様に、闇雲に議論ばかりさせたところで、議論の技術は向上しないのである。ディベートの実践記録などを見ると、生徒の議論の粗雑さ、単調さが目につき、子供のチャンバラを見せられているような印象が残るが、これは議論における論証の方法(論法)を教えられていないことによる。素人の棒振り剣法ではいくら練習しても駄目なのだ。これは意見文のような議論文指導においても同様である。意見文が感想文の域を出ないという不満が出るのも、論証部分が貧弱なため、意見が主観的な感想以上のものにならないからなのである。

[三] したがって、議論指導の基礎訓練として、ある事を論じる(論証する)にはどのような方法が可能かということを取り立てて教える必要がある。本書では、まずそれを指導する教師に、基本的な論法についての様々な情報を与えることをねらいとした。ただし、本書で扱った議論の実例は、私が自分の教室で教えている生徒(すなわち大学生かそれと同レヴェルの学生)に合わせて収集したものであるから、小学校や中学校の教師が、それをそのまま教材として利用するには無理がある。だから、この本で、基本的な論法について学んだら、その実例は自分の生徒に合わせて自分で集めていただきたい。(場合によっては、ご自身で作例していただきたい。)議論指導の初期段階では、なによりもまず良質の議論(文)を大量に読ませることが最も効果的だからである。なお、蛇足ながら一言付け加えておけば、議論指導においては、教科書教材はほとんど役に立たない。なぜなら、優れた議論文は例外なく思想的・政治的に「偏った」ものであるが、教科書に載せられた議論文は、どれも「中立」かつ「上品」で、議論文としては余りにも「毒」のなさ過ぎるものばかりだからだ。よく高校の教科書などで、「哲学者」の書いた詰まらぬ「人生論」が、「議論文」(論説文)の例としてあげられていることがあるが、これは教科書編集者の見識がないのではなく、ああいう文章でなければ教科書に載せることができないからなのである。試みに、戦後の論壇で話題になった文章を幾つか思い浮かべてみればいい。そのどれ一つとして、教科書に掲載したらまず検定にはパスしまいというものばかりである。議論文というのは、本質的に教科書とは馴染まぬ種類の文章なのだ。したがって、補助資料として、生徒に議論文の例を与える際には、その内容的「偏向」を気にする必要は全くない。議論として優れていると思えば、管理職が目を剥くようなものであってもいいのである。私はかつて、ある言語教育研究者(故人)の書いた、清々しいほど「偏向」した書物を読んだことがある。その本の中では、明晰で鋭い議論文の例はすべて左翼系の人の文章からとられ、逆に詭弁の例はみな保守系の論客の書き物から選ばれているのだ。が、私は、これでも全くかまわないと思う。もし、この書物に、読者の論理的思考力・議論能力を向上させる力があるなら、それによって向上させられた読者は、容易にその選択上の「偏向」を見破るであろうからだ。逆にいえば、そのような読者を育てられるかどうかが、その書物の試金石である。自らを否定する読者を育てることによってのみ自らが肯定されるのだ。

[四] 蛇足にしては長すぎたようである。ここで、私が議論指導の出発点として選んだ、基本的な論法の種類を示したい。「定義」・「類似」・「譬え」・「比較」・「因果関係」の五つがそれである。この分類については、何か特別の演繹的根拠があるわけではない。私の一応の専門である古典修辞学での論法分類をもとにして、不要と思われるものは削除し、包含関係にあると考えられるものは一つにまとめて、大体独立していると思われるものを選んだ結果である(1)。論法の名称が奇妙に感じられるかもしれないが、これも古典修辞学での名称をそのまま借用したものだ。なお、この分類はあくまでも整理上の方便にすぎないものであり、選言的(disjunc-tive)な厳密さを有するものではない。つまり、ある論法の型に所属させた議論が、観点を変えれば、別の型に分類されることもありうるということである。

[五] 右の「不要と思われるものは削除し」について、一言説明を付け加えておく。本書では、日常議論に頻繁に現れる論法であっても、原理が単純で、それを学ぶことが議論技術の鍛練につながらないようなものは省いてある。例えば、「証言および権威」という論法がまさにそれにあたる。これは、ある対象についての判断を、その対象の「当事者」の「証言」や、それに関する専門的知識を備えている人の意見を根拠にして主張する論法である。実例を二つほどあげてみよう。


  ちょうど先だっての三月、朝日新聞社主催で<日本の目 ドイツの目>と題されたシンポジウムが開催されたが、そのおり、出席者である西ドイツの前首相・シュミットは「外国人労働者受け入れについて日本はどうすべきか?」という質問に対して次のように答えている。

  「西ドイツでは四百万人の外国人労働者の半数がトルコ系である。これは、むしろ不幸な出来事に属する。トルコ人はイスラムという異文明に属している。それが融和を難しくしている。日本は西ドイツと同じような冒険をしないほうがよい」

  シュミットのこうした回答からは、外国人労働者の問題に関しては、もはや、きれいごとではすまされないところまできた西ドイツの苦悩のほどがきわめて象徴的にうかがえる。

      西 義之『繁栄西ドイツが落ちた罠(2)』


 この伝統的語学教育とその他の学科との相関性ということに関して、私が留学していた頃の西ドイツのミュンスター大学の学長クレム博士の言葉を紹介しておきたい。クレム博士は著名な化学者であるが、同博士の長い間の経験から言うと、高校における理科の成績は、大学における化学研究者としての成績にほとんど関係がない。ところが高校でギリシャ語の成績がよかった学生は、高校では理科をやっていなくても、研究者として大成する率がはるかに高い。化学研究者になりたいなら、高校で理科の実験などするよりも、ギリシャ語でプラトンを読んできた方がよい、というのである。クレム博士の言うのは高度の科学研究者のことであろうが、語学と他学科の相関性が比類なく高いことを証明する面白い発言である。

      渡部 昇一「亡国の『英語教育改革私案(3)』」


 どちらの例も、「証言」と「権威」の両方の性格を備えている。このような論法は、日常議論での使用頻度は高いが、それを扱うにはとりたてて言うほどの技術を必要としない。もっぱら、知識の多寡によって勝負が決まるのである。だから、この論法によって組み立てられた議論文を沢山読んだところで、それによって議論勘が養われ、議論技術の向上に役立つということもない。したがって、ある意味では重要な論法ではあるが、その使用に技術が関与する度合いが低いということを考慮して、本書での考察対象からは外すことにした。

[六] 断わる必要もないと思うが、この五つの論法で、議論法のすべてが説明できるわけではない。議論は多彩で複雑なものであるから、それに熟達しようと思えば、より多くのことを学ぶ必要がある。また、出来合いの論法を学ぶだけでなく、状況に応じて自ら新しい論法を作り出す能力も身につけなくてはならない。が、それはある程度のレヴェルに達した後で悩めばいいことであり、本書で扱った程度の論法を習得していない人には無縁の話である。まずは基本から始めていただきたい(4)。


[注]

(1) 古典修辞学で体系化された論法の型をトポス(τοποζ)という。トポスについては、以下の拙著を参照されたい。香西秀信、『反論の技術』、明治図書、一九九五年、七九−九三ページ。

(2) 光文社、昭和六三年、一二一−二二ページ。

(3) 平泉渉・渡部昇一、『英語教育大論争』、文藝春秋、(一九七五年)一九八一年、四四−四五ぺージ。

(4) 本書の第一章から第三章までは、すでに発表された論文にもとづいているので、ここにその初出論文を記しておく。ただし、いずれも大幅に加筆・修正してある。

  第一章――「説得的言論の発想型式に関する研究(2)――類および定義からの議論――」、『宇都宮大学教育学部紀要』、三九(平成元年 二月)第一部、一一二三ページ。

  第二章――「正義原則と類似からの議論」、『日本語と日本文学』、一六(平成四年 二月)、九−一八ページ。

  第三章――「『譬え』による議論の修辞学的分析」、『日本語と日本文学』、一三(平成二年 一〇月)、一−九ページ。

著者紹介

香西 秀信(こうざい ひでのぶ)著書を検索»

昭和33年 香川県生れ。

筑波大学第一学群人文学類卒業,同大学院博士課程教育学研究科単位取得退学。

専門は修辞学(レトリック)。

琉球大学助手を経て,現在宇都宮大学教育学部助教授。

※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
    • この商品は皆様からのご感想・ご意見を募集中です

      明治図書
    • 「反論の技術」では好評価が続き潜在的な需要は多いと思われます。早いところ復刊を決定してください。
      2019/4/13
    • 議論について勉強中です!ぜひ読んでみたい!
      2018/8/13けん
    • 復刊を希望します。
      2018/2/4
    • ずっと復刊を希望していたので嬉しいです。
      2016/4/24
    • 久しぶりにみた本サイトで、以前受講させていただいていた香西先生の復刊投票が、残り一票ということに、運命を感じ、投票しました。別著者で恐縮ですが、学習原論の復刊も期待します。
      2016/4/17Mr.S

ページトップへ