- まえがき
- T 築地実践を支える人間観、学習者観
- 一 出口論争から授業研究の方法を学ぶ
- 1 すぐれた実践を研究する立場とは
- 2 出口論争から何を学ぶか
- 3 授業批評の二つの観点を学ぶ
- 二 四教科の年間指導内容
- 1 「どんな順番で」学ばせるのかにも学習者観が関係する
- 2 「国語・社会」のグループと「理科・算数」のグループ
- 3 国語は、一学期が三つの部分に分かれる
- 4 社会科の一学期は、誇りを持つことを教える
- 5 教科に固有の学力をつける二学期、確認と発展の三学期
- 6 三学期での学習の確認はどう行われるか
- 7 算数と理科では、「ものの見方、考え方」が教えられる
- 8 指示待ち人間から脱するまでの不思議な時期
- 三 学習者を木に喩えて説明した
- 1 斎藤喜博の「学校」づくりと築地の「学級」づくり
- 2 根にあたるものは「自己原因性の感覚」
- 3 幹になるものは「志」
- 4 「合いの手」は効果的
- 5 葉を繁らせる:「転移する学力をつける」
- 6 歴史「縄文時代は八千年も続いたのに、弥生時代は六百年しか続かなかったのは何故か」
- 7 一年の最後には、全員一丸となって完成へ向かう
- 四 自己教育力が育つ築地学級の子ども達
- 1 子どもに一生涯残るもの
- 2 一年後にどの子にも自己教育力が育つ
- 3 最初の三ヵ月で学び方が育つ
- 4 意志の強まりを示す二学期
- 5 指導の循環が全員の自己教育力が育つことに関係している
- 6 光も影も見せる
- U 国語の年間指導
- 一 最初は「夢と希望」と「帰属の変更」
- 1 国語の学習内容が他教科の学習に枠組みを与える
- 2 最初のメッセージ:自分に対して夢と希望を持つこと
- 3 自分たちで授業することが自信につながる
- 4 帰属の変更:他者から自分へ、能力から努力への変更
- 5 願いと学習課題が対応する
- 6 自分たちで授業をする力をつける第一歩は
- 7 授業を「動かす」
- 8 子どもが考えた学習課題で授業をすすめない
- 9 たった一字で意味が逆転
- 二 一学期の最後は「志を育てる」
- 1 基礎・基本の一つ:感情にとらわれず事実を客観的に見る
- 2 大きな課題を出すことで全体を見渡せる能力がつく
- 3 証拠を大事にすると一般化が起きる
- 4 五編の詩とも同じ課題で始まる
- 5 「志」を育てるメッセージ
- 6 説明文で細かいところまで読む子にする
- 7 違う教科で同時期に同じ「昆虫」を扱う
- 三 二学期は「生き方を学ぶ」
- 1 二学期の目標「生き方についてのメッセージを読み取る」
- 2 「〜の時の気持ちは」ではなく、「〜の時はさみしかったか」
- 3 行事係に、授業で班の子を助ける技術を身につけさせる
- 4 「〜を見ているのは誰?」
- 5 主人公の性格を読み取ることでメッセージが読み取れる
- 6 ごんぎつね:人と人はわかりあえないこともある
- 7 橋:頑張れば自分で自分を認めることができる
- 8 整理して二つの選択肢にする
- 9 同じ証拠の文から正反対の結論が出る
- 10 書いてある量を証拠にしない
- 11 八郎:幅広く見る・本当のやさしさとは
- 四 二学期の目標の一つ:「語彙・表現力を豊かにする」
- 1 二学期の「話す」領域の目標は
- 2 言葉を扱った教材を大事にする
- 3 相手に理解してもらうには「話す」か「述べる」か
- 4 予告指名で発言力をつける
- 5 場面に応じて言葉を使い分ける
- 6 最後に学習を自分たちの生活におろす
- 7 比喩を使った説明のわかりやすさ
- 五 三学期は「再び夢と希望を」
- 1 「夢と希望を持つこと」で一年は循環する
- 2 いい春つくろう:不平不満をかかえた表情ブスにならない
- 3 泣くことの持つ意味を教える
- 4 教師が出す学習課題を先取りするようになる
- 5 谷間にかかったにじの橋:探求心と持続力を持つ
- 6 自分の行動を自覚(モニター)する力を育てる
- V 理科の年間指導
- 一 理科でも伝えられる教師からのメッセージ
- 1 理科の目標:自分たちで授業を関係づけ発展させる
- 2 メッセージ:じゃがいもの芽のように全員が芽を出す
- 3 実験を失敗させて教える:おおよそでいいにしない
- 4 じゃがいも:不利な状況になったら努力して状況を変える
- 5 昆虫:偶然当たったというのではいけない
- 6 流れる水のはたらき:石のように授業の本流からはずれない
- 二 一学期は教師中心に「関係づける」方法を教える
- 1 違うものの中に共通性を見いだす
- 2 教材、単元を結びつけることで問いを切らない
- 3 「何か気付いたことない?」
- 4 子どもの発言を利用して課題を出す
- 三 二学期は、子ども中心の授業になる
- 1 学習課題が子どもから出るようになる理由
- 2 子ども自身に課題が解決したことがわかる
- 3 徹底した納得が次の疑問を生む
- 4 次の発展を引き出す場面をさりげなく教師が設定する
- 5 子どもから出た疑問を大事にする
- 6 具体的な経験に根ざして授業が行われている
- 四 授業を見通す力を育てる
- 1 さまざまな「先生ごっこ」
- 2 年間の授業全体の流れが子どもにもわかってくる
- 3 子どもが授業展開を見通して動く
- 4 授業は複線型で進む
- 5 枝分かれして残していた問題にきちっと戻る
- あとがき
まえがき
一巻は、一九九一年に「授業研究」誌に連載したものに修正加筆した。この連載は、築地実践の全体像を明らかにしたいと意図していた。
自分を無にして実践を見ていると、実践の方からここを切り開いて欲しいと語りかけてくるといった感じがある。一巻は、眼前に浮き上がってきたこうした所を切り口にして、実践の全体像に迫るという方法をとった。現象学的な手法と言えるのだろう。
一巻を書き終わった時点で、二巻は、自立した子どもを育てるための年間指導を書こうと考えていた。
日高六郎氏は斎藤喜博氏のことを、「斎藤さんは本質へつきすすむ人であると同時に、その目標までの道筋を考える組織者、あるいは演出者としてはなみなみならぬ戦術者である」と書いている。この言葉は、築地をそのまま表す言葉でもあった。築地も、よく、「本筋があっていれば、細かいことはいいのだ」と言っていたし、私は、築地の話を聞いて、何回「築地先生は戦略家だねえ」と感嘆の声をあげただろうか。
本質をつきすすむ力と、目標に至るまでの具体的な戦略的技術を考える組織力。年間指導には、まさしくこの二つの力量があらわれる。
手元にはたくさんの授業記録があり、個々の指導の内容が時期によって異なるのはわかる。しかし、連載を書き終わった時点では、大きな全体的な流れが見えていなかった。それがその後思いついて、一年間の各教科の全学習問題の目標を築地に書いてもらって、ようやく年間指導の全体像が見えるようになった。
年間指導が、築地の人間観、学習者観に基づいているということがはっきりしてきた。自立した子どもを育てるためには、人間としての生き方を伝えていくことがいかに大事かということも知った。
築地に出会ってから年間指導を書き上げるまでに、実に八年もかかった。少しずつ見えてきたことに、分析方法を工夫しながら光を当てていく。自分の実践ならば簡単にわかることが、人の実践であるが故につかめない。一時間の授業の研究と異なり、年間指導をとらえることは、そういうもどかしさを常に感じさせるものであった。
自分には絶対に創造することの出来ない実践を、研究者故に分析して知ることの出来るしあわせを味わった。と同時に、何かの手段を工夫しなければ、実践を見ることが出来ないという、研究者の立場のもどかしさ、悲しさも感じてきた。
研究者は、一時間の授業記録をとることからしか研究を出発させることができない。その一時間の授業も、テープの中にあるに過ぎず、記録しなければ姿を見せない。しかも、一時間の授業は、年間指導という点から見れば大河の一滴にすぎない。研究者の悲しさというのは、大河の一滴から切り開いていくことでしか実践を見ることが出来ない悲しさとも言えよう。実践家が自分の授業を書くことの重要性も感じた。
本著で吉田章宏氏が斎藤氏を失ったとき、氏は研究者としてのある時代が終わったと感じられたのではないかと書いた。シリーズを書き終わろうとしている今、私にとっても研究者としてのある時代が終わったという感じがしきりである。はたして次に何が待っているのだろうか。
授業研究に関しては素人だった自分が、築地という実践家が創った本気の実践に立ち向かっていった。力不足、根気不足を感じるが、これしか出来なかったと思っている。途中、静岡から筑波に住まいを移し、静岡に通う生活の中で、少しずつ書き続けてきた。
本というのは一冊目は誰にでも書けるけれど、その後が難しいとよく言われる。二巻を書いていて、そのことが実感としてわかった。
樋口さんの女性研究者に頑張って欲しいという言葉が、あきらめれば楽だという誘惑に負けそうな自分に呼び掛け続けた。やっぱり女性は駄目だと思われたくないという秘かな意地が、私にあった。樋口さんには本当に感謝している。一巻を書き終わったばかりの私に、次をかならず書くのだよと言われた江部さんの言葉に励まされ続けた。
そして、築地に出合ったことに心から感謝している。二人の間に何か強い縁があったとしか思えない。
一九九四年五月 /落合 幸子
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