- はじめに
- 第1章 これまでの「常識」を捉え直す4つのヒント
- ヒント1 「教育」とは何か
- ヒント2 「学校」とは何か
- ヒント3 「子どものせい」にしない
- ヒント4 「できない理由」を探さない
- Column ガイドラインにも非常識な一文?
- 第2章 授業に悩んだ時に立ち返りたい40の疑問
- マインドセット
- 疑問1 「隠されたカリキュラム」はすべて正しいのか?
- 疑問2 「消極的な子ども」をマイナスに捉えていないか?
- 疑問3 「なぜ勉強するのか」に答えられるか?
- 疑問4 「学習規律」はなぜ必要なのか?
- 疑問5 よい学級経営の「方法」だけを真似していないか?
- 教材・教具・指導方法
- 疑問6 紙の教科書の「難しさ」を見落としていないか?
- 疑問7 デジタル教科書を過信していないか?
- 疑問8 板書は「デフォルト」か?
- 疑問9 ペーパーテストは成果を測定するのに最適か?
- 疑問10 ドリル学習はどんな力をつけるために行っているのか?
- ICT・AI活用
- 疑問11 「ICTを使わせない」は疑問の余地なく間違いである
- 疑問12 そもそもなぜICTなのか?
- 疑問13 「生成AIなんて使わせない」は、どうか?
- 疑問14 「生成AIどんどん使わせよう」は、どうか?
- 疑問15 「生成AIは不正確だからダメだ」は、どうか?
- 疑問16 生成AIで子どもは楽をしようとするものなのか?
- 疑問17 特定アプリに頼るか? 様々なアプリに手を広げるべきか?
- 授業研究
- 疑問18 指導書の生かし方はわかっているか?
- 疑問19 学習指導要領は絶対なのか?
- 疑問20 指導案の作成に時間をかけ過ぎていないか?
- 疑問21 美しい言葉で学校研究をごまかしていないか?
- 疑問22 データなしで授業研究をしていないか?
- 疑問23 特別支援の視点のない授業研究に価値はあるか?
- 疑問24 協議会で授業者が辛くなっていないか?
- 疑問25 生成AIの活用なしに授業研究はできるだろうか?
- 疑問26 研究会講師を信じていいのか?
- 疑問27 実りある講演会の聞き方になっているか?
- 情報発信・情報収集
- 疑問28 「教員が書いた本」は本当にすべて役に立つか?
- 疑問29 専門家の本はすべて正しいのか?
- 疑問30 有識者の言説は常に正しいのか?
- 疑問31 附属学校の研究にはどんな価値があるのか?
- 疑問32 「それは附属だからできるのではありませんか」は正しいのか?
- 疑問33 「こうすればうまくいく」実践発表でよいのか?
- 疑問34 SNSはどう有効活用するべきか?
- 疑問35 セミナーは対面か、オンラインか?
- その他
- 疑問36 教師としてどのような在り方を目指すか?
- 疑問37 伝統は守り続けなければいけないのか?
- 疑問38 コミュニティに所属する目的は? そのままで達成されるか?
- 疑問39 お金の話はタブーなのか?
- 疑問40 「負け」「失敗」は許されないのか?
- おわりに
- 参考文献一覧
はじめに
みなさんは、ご自身が子どもだった頃、校歌を歌う時、どのような姿勢で歌いなさいと指導されていたでしょうか。
私の場合、小学生の頃にどのような指導を受けていたかは正直なところ覚えていないのですが、中学生の時に「校歌は気をつけの姿勢で歌いなさい」と言われたことはよく覚えています。国歌についてもそうでしたが、要するに「国歌にしても校歌にしても、自分の国や自分の学校の歌を歌うのだから、その歌に敬意を表するのは当たり前だ」というような指導でした。
前に勤務していた私立小でも「校歌は気をつけの姿勢で歌いなさい」と指導していました。今の勤務校は「校歌は休めの姿勢で歌いなさい」という指導ですが、いずれにしても校歌を歌う時はじっとして歌うように、という指導でした。「ふらふらしながら歌っていいよ」とは指導しませんでしたし、もしふらふらしている子がいたら何か言っただろうと思います。
ところが、(同僚の養護教諭が教えてくれたのですが)先日の終業式でこんなことがあったそうです。
終業式の時はマイクやマイクスタンドを出すのですが、これは放送委員会の子どもが行っています。式の最中、誰か一人は放送室にいて、何かあった時に備えるのも放送委員の仕事です。
終業式では校歌を歌います。通常であれば校歌の最中、放送室に残っている放送委員は放送卓の前に座ってじっとしているのですが、その日、放送室に残っていた子ども(A君としておきましょう)は、違いました。
A君は、自分のことなんて誰も見ていないだろうと思ってのことでしょうが、校歌が始まったら曲に合わせて踊りだしたというのです。そのときのことを養護教諭は次のように語ってくれました。
「最初、それを見つけた時は(え! 校歌の最中なのに?)と思ったんですよ。だって、それはそうじゃないですか。校歌ですよ? これ、誰か他の先生に見つかったら彼が怒られちゃうかな、止めた方がいいかな…とも思ったのですが、見ているうちに考えが変わりました。その踊りが何と言うか…すごくよかったのです。考えていたわけではなくて、その場で彼が曲に合わせて体を動かしていたのだろうと思うのですが、歌詞に合わせたキレッキレの踊りだったのですよ。盛り上がるところではだんだんと手を上にあげていくところとか、ちょっと感動的なくらいでした。終業式が終わった後、A君に『すごくよかったよ!』と言ったら『うわ、黒歴史、つくっちゃった』と言われましたけど」
いかがでしょうか。この話を聞いた時、これは私のような「校歌とはじっとして歌うものだ」という常識に囚われた人間には絶対にできない「校歌への敬意の表し方」だな、と感じました。
「自分の学校の歌を歌うのだから、その歌に敬意を表すべきだ」というのが正しいとして、では、その敬意の表し方が「じっとして歌うこと」でなければならない理由はあるでしょうか。ないでしょう。A君のように踊ることで校歌に対する感情を表に出すやり方だって、あっていいだろうと私は思います。
非常識? そうかもしれません。しかし、もう一度、書きますが、「常識に囚われた人間には絶対にできない」ことというのがこの世の中にはあるのです。そして現代は、それこそが、いい意味で非常識であることこそが求められている時代と言ってもよいのではないでしょうか。
なぜ非常識であることが求められるのか。一つの答えは、これまでの常識では考えられないような結果をもたらすテクノロジーが登場したから、です。そう、生成AIです。
進化が非常に早いので書籍に生成AIのことを書くのはためらわれるくらいなのですが、この原稿を書いている時点で、ノートに書いた算数の問題を生成AIに見せて(=カメラを向けて)「この問題、ちょっと難しいんだ。解き方を教えてくれる?」と聞くと淀みない音声でアドバイスをしてくれるくらいにはなっています。下手な家庭教師より役に立つかもしれない、そんなテクノロジーはこれまでありませんでした。
これまで、家で勉強している時にわからないことがあったら「家族に聞く」「家庭教師に聞く」「参考書を見て調べる」「YouTubeで何かないか探す」「あきらめる」といった選択肢が常識でした。しかし、今は「AIに聞く」という非常識な選択肢があるわけです。
あるいは、先日、こんなことがありました。韓国から十数人の学校の先生が参観にいらっしゃった時のことです。皆さん、ワイヤレスのヘッドセットをつけていて、私が何か話すと、同時通訳の方が即座に訳していました。ところが私の授業、はじめこそ私が話しますが、子どもの活動の時間になったら私は黙ってしまいます。そうなると同時通訳することがなくなってしまい、ヘッドセットからは何の情報も流れてきません。
するとどうなったか。先生方はスマホを取り出し、AIを起動させて、スマホに向かってボソボソと話すと、自分の話したことが日本語に訳された画面を子どもに見せてインタビューしたのです。見せられた子どもは日本語でボソボソと答えます。するとそれがハングルに訳され、それを見た先生がまたボソボソとスマホに話します。それを見て子どもが答え…というやり取りが教室のあちこちで行われたのです。
これまでは「グループに一人ついている同時通訳の話すことを聞くしかない」のが常識でした。しかし、今は「各自がAIで子どもとコミュニケーションする」という非常識な、しかし極めて効率的な手法が現れているのです。
生成AIというテクノロジーを巡る状況一つ取っても時代は大きく変わっているのです。私も改訂に携わった文部科学省「初等中等教育段階における生成AIの利活用に関するガイドライン」Ver.2には、以下のような文があります。
児童生徒の学びにおいては、学習指導要領に示す資質・能力の育成に寄与するか、教育活動の目的を達成する観点から効果的であるかを吟味した上で利活用するべきであり、生成AIを利活用することが目的であってはならない。
こういう文章を読むと、いかにも抑制的で、「なんだか生成AIなんて使っちゃいけないのだろうな」と思いがちかもしれません。あるいは「新しいことに取り組むなんて面倒だ」「厄介なことは増やしたくない」という前例踏襲主義の人にとっては非常に都合のよい文章で、「文部科学省だって『生成AIを利活用することが目的であってはならない』と書いているではないか」などと宣うかもしれません。
しかし、その文部科学省の「初等中等教育段階における生成AIの利活用に関する検討会議」の委員だった私に言わせれば、先の文はこう読み替えればいいのです。「児童生徒の学びにおいては、学習指導要領に示す資質・能力の育成に寄与するか、教育活動の目的を達成する観点から効果的であるかを吟味すればよい」そうなのです。そこさえ押さえれば、生成AIは積極的に使っていいのです。ですから考えてみましょうよ。果たして我々は前例踏襲主義でいいのでしょうか。これまでの常識に囚われていていいのでしょうか。いや、よくないでしょう。
しかし、学校は何かというと前例を踏襲しがちな組織です。校務分掌を引き継いだら、まずは前の担当者が作成したファイルを複製して日付を変えるところから始めることも多いでしょう。(そして、恐ろしいことに日付以外は何もいじらないでも何とかなってしまうこともあるでしょう。)そういう環境である学校に身を置く人間にとって、常識に異を唱えることは非常にハードルが高いことかもしれません。
「でも、そこを何とかしましょうよ。常識を疑って、教育を前に進める非常識を考えましょうよ」
そんな思いがこの本を書く原動力になりました。ただ、「常識を疑う」ということは、往々にして「常識に則ってやってきた人を疑う」ということでもあります。結果、この本を出すことで私は盛大な批判に晒されるかもしれません。これまで仲良くしていた人と仲違いすることになるかもしれません。それどころか敵を増やすことになるかもしれません。
まあ、仕方ないです。この業界に一人くらい、こういう劇薬を放り込める人がいてもいいでしょう。では、長い「はじめに」の最後に、我々を勇気づけるバーナード・ショウの言葉を。
「合理的な人間は世界に適応しようとする。不合理な人間は世界を自分に適応させようとする。だから、進歩は常に不合理な人間に依存している」
2025年2月 /鈴木 秀樹
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