- はじめに
- 第一章 「知識を与える」
- 第二章 「知識」の構造
- 第三章 「知識」無用論
- 第四章 知識の系統性
- 第五章 記号としての「範例」
- 第六章 「ゆさぶり」批判(1) 「出口」の実践
- 第七章 「ゆさぶり」批判(2) 「かたむきかける」について
- 第八章 「ゆさぶり」批判(3) 比喩としての「ゆさぶり」
- 第九章 「教授学」における「実践」と「理論」
- 第十章 「教授学」における「イメージ」
- 第十一章 「学力」(1)
- 第十二章 「学力」(2)
- 第十三章 文章としての授業記録 ―大西忠治氏の「思い入れ読み」を排す―
- 第十四章 自覚としての「授業」、現象としての授業
- あとがき ―無原則の「実践」信仰を排す―
はじめに
この本は、次のような内容の構成になっている。
A、私は『授業研究』誌に、一九七七年四月号から一九七八年三月号までの十二回にわたって、「教育用語の分析」という連載論文を書いた。それを十二の章に割りふって収録する。雑誌に出たものは、私の責任で自由に主題・内容を構想して書いたものであり、しかも論争的・批判的性格の強い文章であるから、特に正確を期するため次の点以外は改めずにそのままこの本に収めることにした。@誤植を訂正する。A雑誌では、紙幅の都合で不本意ながら他の文献からの引用を中途で省略したところがある。そのような箇所は十分な長さの引用に改めた。B筆者氏名・肩書のような、雑誌での連載という形式に伴う字句は削った。
B、右の第六章・第九章・第十章・第十二章のそれぞれの後に〔補足〕という短い文章を書いた。雑誌に書いた時点では枚数が足りず書けなかったこと、あとで読みなおして誤りに気づき自ら批判したくなったことを書いた。
C、第十三章……『現代教育科学』誌の一九七八年四月号に書いた論文「文章としての授業記録――大西忠治氏の『思い入れ読み』を排す――」を誤植を正して再録し、「第十三章」とした。これは、Aの連載の第6・7回(本書第六・七章)についての大西氏による批判論文「実践記録を読み直す視点」(『現代教育科学』一九七八年二月号)に対する私の対応として書かれた文章である。
D、「第十四章 自覚としての『授業』、現象としての授業」……右のCを補い書き足したものである。この章で私は、大西氏の主張のみではなく、最終の節において、高橋金三郎氏の主張(「授業実践ということ」『わかる授業』第一二号)をも、批判した。
E、「あとがき――無原則の『実践』信仰を排す――」……もちろん、この本のための書きおろしである。
一九七八年四月一六日 著者
復刊感謝します。
学びます。