- まえがき
- 1.どん詰まりのときこそ子どもたちに「がんばっているね」と声をかけてあげたいですね…
- 努力しても報われない現実がある/ 「自分が自分を肯定できる日」まで/ 誰のためのカウンセリングか/ 自分が生きることで生きる意味を見つける他人もいる/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 2.人は優しさにふれると,優しくならずにはいられないものですね
- 「悪い子」で誕生した人はいない/ 人は優しくなりたがっている/ 人に優しくされるのが怖い/ 正しさだけでは生きていけない子どももいる/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 3.「それが問題だ,原因だ」と言っているほうが問題をつくっていることもあるんですね
- 共感的接し方とは/ 「同情するなら金をくれ!」/ 父親として,なにが間違っていたのか/ 人に自分への共感を求める前に/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 4.“困った子”になっても向きあってくれる先生でしょうか
- 「思いやり」は「やりとり」から生まれる/ 人間関係を修復できない家族/ しんどさから逃げない関係/ 親子とは究極の「思いやり」/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 5.目に見える,耳に聞こえてくる言葉だけが真実でしょうか
- 「もう私,あきらめました」/ 自分にも原因がわからない苦しみ/ 関係を投げ出すことを“あきらめる”/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 6.積み残したままになっている子どもの気持ちに気づいていますか
- 母のひたむきな思いが,子どもの遠慮を生む/ 強がりをいう4歳の胸のうち/ 「いい子」の積み残しをすくいとる/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 7.自分の悩みを発信することで,誰かが救われることもあると思いませんか
- ひと足早い“お年玉”/ 間・インターバル・枕が大切/ “素性”を語り,心を開く/ 等身大の自分を取り戻す/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 8.ネガティブな思いも受け入れて,“仕切り直し”の第一歩ですよね
- 人としての“自立”/ 父を否定することへのこだわり/ 母への依存は父への拒絶の裏返し/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 9.相談内容は人との向きあい方がわからないことから始まっているのですね
- 面接は最後まで聞かなければわからない/ 生身の人間関係に向きあう勇気/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 10.矛盾した話に素直にうなずけますか
- 正論はときに子どもを押さえつける/ いじめによる被害妄想/ わが子の矛盾を矛盾のまま受け入れる/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 11.強がる心のいじらしさが聴こえてきますか
- 努力しても報われるとは限らない/ 子の心への母の優しい気づき/ 母のいる場が“還る家”/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 12.関わりを「形」づくりたいと思っていませんか
- 「関わり」の思い出/ 「すっきりとはいかない」出会い/ 終わることのない「関わり」/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 13.殴ってしまう事実に先にとらわれていませんか
- わかっているのにやめられない暴力/ 母の心を知り“いのち”に向きあう/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 14.コミュニケーションを嘆く前に“呼び水”に努めてみませんか
- 言葉にしきれないから沈黙する/ 強迫性障害に苦しむ少女/ 返事のない沈黙/ はき出せない不安の“呼び水”になる/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 15.罪を繰り返すのは関係性に気後れしているからなんですね
- 6年間続く犯罪行為/ 人と人がつながっていく関係性が見えない/ 人は無関係では生きていけない/ 「生かされて生きる」/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 16.脈絡抜きで判断してはいけませんね
- 人間関係を壊す“二次災害”/ 地震で壊れた家族の絆/ 親にとっていいとこだけがすべてじゃない/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 17.“照れ隠し”の心に近づいてみませんか
- 幼児でも自分の人生を自覚している/ 母親の仕事と娘の情緒不安/ “照れ隠し”の心を包みこむ/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 18.大人の心に翻弄されている子どもの心に気づいていますか
- 一年に一回の父親の“帰宅”/ 大人の打算に冷える子どもの心/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 19.「一生懸命な教師」を親にもった子の葛藤に気づいていますか
- 努力しても報われないことがある/ スケジュールどおりに育たなかった子/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 20.親や教師に喜んでもらいたいと願う子どもの心に気づいていますか
- 子どもは自分の成長がプレゼント/ 心では終わっていない“財布事件”/ 子どもの弱点を見逃す努力を/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 21.“焼き餅”で子どもの心を振りまわしていることはないですか
- 「普通」であることにこだわる母親/ 封印されていた母親自身の不安/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 22.成果や効率にまどわされ,人の心を見失っていませんか
- “暇つぶし”のままでいいのか/ 父親からの入院説得の依頼/ 誰のためのカウンセラーなのか/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 23.先生自身の子ども時代を打ち明けてこそ,聴こえてくる心があると思いませんか
- 生徒がかわいく思えない教師/ 継母との確執/ 血よりも濃い親子関係/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 24.共感的表現に酔っていませんか
- 「自己中心主義」は生きる原点/ 利己は利他のなかで生きる/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 25.子ども時代の親への懐きたい思いを起こしてみませんか
- “素”の関わりの難しさ/ 父親を悩ませる息子の“ざん悔”/ 繰り返される親への愛着の願い/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 26.老若男女で弱さや寂しさを語りませんか
- 報われなさから生まれるすねる心/ 「還る場所」を仮想に求める/ “幼心”を謙虚な気持ちで語り合う/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 27.子どもの友だち選びを大人の顔でしていませんか
- 高校の勉強についていけない/ “新しい友だち”への両親の不安/ 友だちが親をほめてくれる“ぜいたく”/ 互いの親をかばいあえる尊き友だち/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 28.子どもの“特性”を決めつけていませんか
- 本当の平等とは画一化ではない/ 子の状況を理解できない父親/ 「伸ばす」ことは“特性”を奪うことにも/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 29.猫撫で声が聴こえてきますか
- 猫まねでしかコミュニケーションをとれない子/ 「お寺の子」としての期待/ いつか“猫語”でゆっくり会話を/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 30.「いい生徒」と言ったままで関係をすませていることはありませんか
- 問題がないことが問題/ 父の厳しさと兄の心の病/ 迷惑かけないように踏ん張っている/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 31.名を呼べる身に感謝していますか
- 名を呼び合うことで存在が肯定される/ 父親との初めての二人暮らし/ “御名”を称える声は尊い/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 32.大切なお金で子どもの心を寂しくしていませんか
- 責任ある関係を維持するむずかしさ/ 金を工面することで息子を助ける/ お金には代えられない関わりを/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 33.励ますつもりが励まされているってことはありませんか
- 原因不明の厚い壁/ 難病とも強迫観念とも向きあう強さ/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 34.腹を立てて素直になれずにいる自分に気づいていますか
- 手際のよい話し方の裏にある不信/ 信頼関係は双方向で築きあうもの/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- 35.“負い目”をもつことの大切さを忘れていませんか
- トラブルを起こして寂しさが紛れる/ “負い目”を自覚して/ 「先生,ここで踏ん張ってね」
- あとがき
まえがき
◆教師は人間関係を“仕事”にしている職業人
『がんばれ先生シリーズ』の一冊として本書を手にとってくださった先生方に,親子や教員の心理的援助というカウンセリングに身をおく私がなによりも願うことは,「教師は人間関係を“仕事”にしている職業人である」という自覚をもって日々,子どもたち,保護者,同僚と向きあってほしいということである。
極端に言えば,教科を教える授業も,人間関係を学ぶ空間を得るための一つの“手段”だということである。もちろん,学力向上も意味あることだが,子どもたちにとって本当の「生きる力」とは,仲間集団のなかで孤立しない人間関係のコミュニケーションを身につけていくことである。保護者会も個々の保護者との面談場面も,伝達することが“目的”になりがちだが,そのとき「いま,保護者との間に豊かな信頼関係を自分はつくろうとしているか」という謙虚な問いかけが大切である。
つまり,教師の人間関係のとり方が,子どもや保護者の“その後”の他者との人間関係に影響を与えていくのである。それが“仕事”であるということは,子どもや保護者,同僚との多様な人間関係をあきらめたり,決めつけたり,投げだしたりしないで“事”に“仕”えていけばいいということである。人とは人間関係とは,常にずっこけたり,また浮かび上がったりして“変化”していくものである。だから安易に絶望したり,またうぬぼれてはいけないということを見せていくことが,教師にとって大切な仕事の一つだと私は思う。それは教師も人間なんだから“完璧”でなくてもいいということである。むしろ完璧な教師では,子どもや保護者のお手本にならない。ずっこけたり,恥をかくようなことになってもいい。ただそのとき,いじけて,すねて孤立を深めていくのではなく,多様な人間関係から再び「生きる力」を身につけていくことである。その役割が教師には“仕事”として与えられていることに“職業意識”をもっていれば,心がなえたとしても踏ん張っていくことができるのではないだろうか。
人間関係が教師の“仕事”なら誰でも教師ができてしまう,とその専門性をいぶかる先生もいるかもしれない。ところが,誰でもできそうでできないのが,人と人との関わり,人間関係を基本に働きかけていく教師という仕事である。なぜなら,常に自分の関わりの無力さを,相手からまるで“合わせ鏡”のように突きつけられるからである。それは物をつくる生産工程で用意されている“作業手順”や“対応マニュアル”では乗り切れないものである。ある範囲,段階までは「指導性」が通用しても,それ以上は生身の人と人との「関係性」でしか信頼関係を築けないのが人間相手の“仕事”にはある。だから,子どもたちや保護者への指導性を意識しすぎると,素直になついてもらえる関係性を喪失してしまいがちである。謙虚さを忘れた情熱は,ただの“押しつけ”である。
教師という仕事をしながらわきまえておきたい謙虚さは,自分も子どもたちに対して「無力な存在である」という自覚である。“合わせ鏡”を突きつけられたとき,この立場に思いを寄せることができれば,相手との関係は継続できるが,できないと「教師をやめたい」と思い込んだりしがちである。教師が人間関係を仕事にしている“プロ”としての誇りをもつとすれば,無力な人が無力な人に手をさしのべ,それでも関係を断ち切らないで働きかけていく姿にある。
◆子どもや保護者に素直に「甘えられる」教師に
私たちは誕生と同時に誰もが,避けられない現実を背負う。それは孤独である。孤独だから人とつながる人間関係の術を幼き頃から学んでいくことが大切である。「人は孤独ではない」の前に「孤独な存在」であることの自覚が必要である。その学びがあればこそ,「人は一人では生きていけない,多くの人に支えられて生きている」という実感を獲得できる。教師にはこの学びのなかにあって,子どもや保護者に対して,孤独から抜け出す人間関係の研究者ではなく,実践家としての“モデル”になってほしい。それがあえて“専門性”と言えば言えるのではないか,と思える。
孤独感は一人ひとりオリジナルである。人と比べることはできないし,比べるものでもない。そしてその気持ちは心に余裕がないだけになかなか上手に表現できない。言語化できない子どもはなおさらである。大人でも“口下手”と照れ隠しを口にするが,孤独は先への不安を呼び込み,頭の中は真っ白である。その孤独から抜け出す方法は「甘えること」である。人間関係の“専門家”,プロでもある先生方は,孤独を抱えたとき,素直に「助けてください」「協力してください」とこびることなく人に甘えられるだろうか。甘えるということは人とつながることである。だから生命に関わることである。
人間関係づくりの視点からみて,子どもと大人の違いはなにか。子どもは基本的にとくに大人である他者から声をかけてもらえる立場にある。「子ども」という“弱者”の名のもとで「受け身」が保障されている。最近では少子化のなかで髭の生える年齢になっても一人っ子は「ヨイショ」されやすい状態になりがちである。しかし,生涯にわたってそのような「受け身」で生きていくことができる人はまれである。
一方,人は「大人」と呼ばれる年齢や立場になってくると自ら人の輪のなかに飛び込んで関係をつくるリスクを当然のように背負わされる。人間関係に傷つく可能性を抱えつつも「能動的」に対人関係をつくらなければ「大人」扱いしてもらえない。社会性とか人間的成熟さとは,難しく考えなくてもこの自覚である。そしてこの学びが同一世代と同一空間のなかで営まれているのが学校であり,教師や友だちとの人間関係である。その「大人」になるためのコミュニケーションの学びが素直に「甘える」ことである。
◆まずは「ただ居て,ただ聞く」ことが深みのある教師への第一歩
甘えるには勇気がいる。それは人を信じていく勇気である。拒絶,否定,無視されるかもしれないリスクを背負う勇気である。人は傷つくリスクを背負ってこそ,癒されるチャンスとめぐり合える。信じることなくして向きあう意味はない。自分の無力さ,孤独を感じたとき,強がることなく素直に「甘えること」のできない子どもや大人は,依存的になりがちである。他者とつながることの可能性をもてない空しさは投げやりであったり,捨て鉢的である。そのつながりを求めない冷めた感情が,手のかからない“いい子”になったりするのである。一方,「私は,寂しいんです」と素直に甘えられない人は,すぐに権利を持ち出したり,相手の義務を言い出して姑息な甘え方をしてしまいがちである。
生涯にわたって問われる孤独から抜け出す命綱は,学歴や名誉や財産ではなく,素直に人に甘えられるコミュニケーションの心とその術を身につけることである。だから,人間関係のプロとして教師は,子どもや保護者に頭や体を鍛えることの大切さを説くことも大切だが,信じる勇気を鍛えることを生身で見せていくことがなにより大切である。信じる勇気とは他者に「共感」していく勇気でもある。
もしかしたら,人には言えない事情のなかで「甘えること」を学びきれずにきた子どもや保護者は,「信じる勇気」「共感」をどのように表現したらいいのかわからないのかもしれない。それが悪態になったり,クレーマー的行為で寂しさを訴えているのではないか。最近の親子相談で増えているパーソナリティ(人格)障害は,他者とのコミュニケーション不全による関係障害と私は受けとめている。だとしたら,「発達障害」とかクレーマー的保護者への第一の関わりは,かまってあげることである。困った子は困っている子である。保護者や子ども,同僚に「甘えてもらえる」先生になることよりも,あなたが「甘えること」が先である。なぜならそれが信じる勇気の教育実践だからである。とくに子どもには無力な存在になったとき「甘える」「素直になる」心を獲得してほしい。
若い先生方も含めて,偏差値世代以降の「子ども」たちは受け身の人間関係から一歩「甘える勇気」が出せずに,「傷つきたくない」「癒されたい」「かまってほしい」と人を「信じる勇気」にたじろいで相談に訪れている。そのときにたびたび口にする親や先生への期待倒れのひと言が,アドバイスや励ましはあっても「ただ聞いてもらった」「ただ居てくれた」ことがなかったということである。だから,子どもだけでなく「大人」の年齢になった親でも教師でも,評価されないで「ただ聞いて,ただ居て,かまってほしい」とカウンセラーにその願いをもって尋ねてきたりしているのである。
手間をかけて声なき声を聞く。そしてその喜びを「甘える勇気」にして人間関係を築いていく。そんな深みのある厚みのある教師生活をつくろうではないですか。
教師になった初心にかえり,素直に子どもの幼心にもどって「甘えることのできる」教師に“はじめの一歩”を踏み出してください。それが子どもや保護者から懐いて慕ってもらえる「せんせい」になることである。
本書は,年齢をこえて子どもという立場の息づかいからそのけなげなまなざしに思いを寄せることで関係を築くことのできた親子と私とのカウンセリング実践記である。子ども時代のなかった人はいない。だから,子どもの心がわからなくなったら,先生もそして親も大人もみんな子ども時代のあの幼い心に還ればよいのである。いつでも人間の原点である童心に還ることのできる深みのある先生になっていただきたい。そのためには,どこで人間性を取り戻すための踏ん張りをすればよいのか,ご一緒に学んでいきたいと思っている。刊行にあたっては,連載中の『月刊・教職研修』(教育開発研究所)の原稿を加筆し,京都市にある不登校の親子支援ネットワーク「♪あんだんて♪」代表の福本早穂さんの助言をいただいた。また,明治図書の長沼啓太氏のご配慮も賜った。あわせて感謝申し上げる。
2009年6月5日 /富田 富士也
長い間、民間で不登校、発達障害の子どもと保護者の方のご相談をお聞きしながら、一方で、学校現場にも子ども達のことでお伺いして、学校の先生方に、今、必要なことは何かと、先生方とお話しながら、常に考えてきました。
そんな中で、富田先生のこの書籍を、もう一度、学校現場の先生方はもちろんのこと、今、お子さんを学校に通わせていらっしゃるご家族の方にも、ぜひ、お読みいただきたいと、強く思い、復刊をお願いしたいと思います。