- まえがき
- 序 今、なぜメディアリテラシーなのか
- 1 変わるコミュニケーションのあり方
- 第三の学力、総合的な学習能力とは
- メディア、情報を媒介するもの
- 2 教育改革とメディア
- メディアリテラシーで楽しい授業を
- 第一章 学校とメディアの今
- 1 メディアのフロンティアとしての学校
- 学校は新しい文化のショーウィンドウだった
- 情報化社会に取り残されてしまった学校
- マルチメディアの登場
- 2 マルチメディア時代の社会と学校
- マルチメディアは教育の救世主か
- 「新しい学校」の情報環境
- 学校がインテリジェント化する
- パソコンの普及と教師の操作能力
- 第二章 メディアリテラシーとは何か
- 1 メディアリテラシーの定義
- メディアにも読み書き能力が必要
- メディアリテラシーの多層性
- 教室に出現したマルチメディア状況
- たえず変容しているメディア
- メディアと無縁ではいられない子どもたち
- メディアリテラシーは一日にしてならず
- クリティカルであること
- 2 メディアリテラシーとメディア教育
- 総合的な学習の力としてのメディアリテラシー
- メディア社会の免許証
- メディアの何を学習するのか
- メディアは所与のものではない
- メディアの行く末を決めるのは私たち自身
- 第三章 メディアリテラシーと授業
- 1 授業を始める前に
- 先入観を植えつけないで
- 子どもの主体的な学習の支援
- 2 授業の進め方(小学校低学年)
- メディアリテラシーは小学校低学年から
- テレビ漬けの子どもたち
- 低学年では情報との付き合い方を主に
- 低学年におけるメディアリテラシー授業のプラン
- 3 授業の進め方(小学校中学年)
- 中学年では、地域の現実から学ばせたい
- 4 授業の進め方(小学校高学年)
- 高学年では「批判的」な態度の育成を
- 情報教育はコミュニケーションへの理解が不可欠
- 5 授業開発のヒント(中学校・高等学校)
- スパイラルに伸張するメディアリテラシー
- 国語―新しいリテラシーの育成を
- 社会―ステレオタイプからの脱却
- 理科―新しい発表の仕方
- 数学―現実と数値とのズレ
- 技術家庭科―揺れ動く性差、技術と社会
- 音楽―商品としてのアイドル
- 保健体育―テレビが競技を変えた
- 美術―集団での創作を大切に
- 6 総合的な学習の時間との関係
- 「総合的な学習」こそ千載一遇の機会
- グループでの学びの場を
- 学校全体や外部の協力体制も必要
- 情報発信の意味を問い直そう
- 7 カナダのメディアリテラシー教育事情
- カナダでメディアリテラシーが重要視されるのはなぜか
- マドンナの授業―高等学校のケース
- メディアリテラシーは何の教科か
- メディア論との関連で
- クリスマスの授業―中学校のケース
- 教師への支援体制は
- 8 目指すべきメディアリテラシーの力とは
- 自己表現とコミュニケーションの力の育成を
- 事実をもとに自分独自の考えを求める態度の育成
- 古いメディアの中に新しいメディアのヒントがある
- 第四章 情報化社会とメディアリテラシー
- 1 メディアの巨大化と現代社会
- 二○世紀はメディアの世紀
- ナチスドイツのメディア戦略
- 日本のメディアリテラシーの芽
- 映画とメディアの芽
- 映画とメディア教育
- 2 メディア教育の位置づけ
- ユネスコとメディア教育
- メディア研究とメディア教育の乖離
- 戦後日本におけるメディア教育
- メディアは教える必要がない?
- コンピュータ教育の流れ
- 3 情報教育とメディアリテラシー
- 「情報」活用能力とは
- 情報教育とコンピュータ教育の流れ
- 自己発見の道具としてのメディアコンピュータ
- ネットワークの強みと問題点
- 情報化の「光」と「影」
- 第五章 これからの学校とメディア
- 1 情報化時代の学校作り
- 生きる力とメディアリテラシー
- 情報化社会の子どもたち
- ハコ物優先の考え方はやめよう
- 教師の役割の変化
- グループワークとしての教育
- すずめの学校からめだかの学校へ
- 2 新時代の「リテラシー」とは
- リテラシー概念のもつややこしさ
- メディアリテラシーに教科書は必要か
- 新しい「リテラシー」の構築を
- メディアリテラシー時代の学校制度
- おわりに―番組制作者がなぜメディアリテラシーを問題にするのか―
- 参考文献
- あとがき
まえがき
先日、小学校・中学校の先生方の自主的な研修会にゲストとして出席する機会がありました。テーマは「総合的な学習の時間」です。どの先生も一様に「総合的な学習の時間」を活用して、子どもたちの生きる力を高めていきたい、という期待をもっていました。たぶん先生一人ひとりはこんなこともやりたい、あんなこともやりたいという夢をもっているのでしょうが、具体的にどんな授業をするのかとなると、皆、一様に不安の声をあげていました。資料集ないしは指導書みたいなものは出ないのだろうか、という声もありました。
私が、放送局では番組の企画は一人ひとりのディレクターが提案して、先輩も後輩も関係なく議論して決めていることを説明し、その上で「職員会議(ないしは学年会)でこんな授業をしたいという提案を持ち寄って、コンペを行ったらどうですか?」と提案したところ、ほとんどの先生方が「そんなことは今の学校ではあり得ない」という顔をされました。せっかく、自分たちが長年やってみたいと思っていた教育内容を実現出来る機会が到来しているのに、学校現場に自ら改革する力が無いとすれば「総合的な学習の時間」を設ける意味はありません。
上からの指示を待ったり、よその実践を真似すると言うと語弊があるでしょうが、研究指定校に見学に行ってもらった研究紀要を引き写したり、地域の教育センターが作成する資料集をあてにしてはならないでしょう。地域と学校の実情を掴んでいるのはその学校の先生方なのですから。教科書ももちろんありません。決められているのは「時間」を設けよ、ということだけです。この「総合的な学習の時間」に息を吹き込んで、学校を活性化するのも、先生方一人ひとりの知恵と工夫次第なのです。
さて、総合的な学習を進める際に、国際理解、情報、環境、福祉・健康の四分野あるなかで、先生方にとっていちばん厄介なのは「情報」ではないでしょうか。コンピュータを活用しなければなりませんし、全ての学校がインターネットと結ばれます。しかし、このことの意味をまだ多くの学校現場では掴みきれていないように思えてなりません。
インターネットは確かに便利です。子どもたちは学習するにあたって、これまでとは比較にならないほどの情報を手に入れることができます。でも、いままで学校に入ってくる情報というのは、教科書であったり、図書館の本であったり、慎重にフィルターがかけられた情報でした。これからは、インターネットを通して、厖大な量の情報が子どもたちに押し寄せてきます。子どもたちは電子技術という新しいテクノロジーを使いこなして、これまでとは全く違った態度で、もしかしたらあやふやかも知れない情報に接することが求められているのです。
私は、二一世紀の教育は、こうしたコミュニケーション革命に子どもたちがどう立ち向かっていくか、という観点で考えるべきだと思っています。その際、有効な考え方がメディアリテラシーです。二〇〇二年に学校のカリキュラムが変わるだけでなく、これまで自明のことと考えられていた学校で教えるべき「読み書き能力」そのものが問われているのです。子どもたちがコンピュータを使って、映像や音声情報も自在に駆使しながらプレゼンテーションする時代がもうやってきているのです。
その時にどうやって子どもたち(もちろん私たちも)が自分の言葉で語ることができるのか、これからメディアリテラシーという新しい読み書き能力の考え方を使いながら考えていきたいと思います。
1999年5月 /市川 克美
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明治図書















