- まえがき
- 第T章 いま、なぜ学び方学習か
- 一 「自ら学び、自ら考える」学習への転換
- 1 激変する社会からの要請
- 2 教育界の内からの「学び方」改革の要請
- 二 いま、なぜ学び方学習か
- 1 生涯学習時代の学び方
- 2 子どもはどんな学び方をしているか
- 3 子どもの学び方を高める教育を
- 第U章 学び方学習論の系譜
- 一 新教育運動のなかで
- 1 児童中心主義の学び方学習
- 2 大正新教育運動のなかで
- 二 諸外国の学び方学習
- 1 アメリカの学び方学習
- 2 イギリスの教育と学び方学習
- 学び方の国民性
- 学び方のポケット・ガイド・ブック
- 学習の自己計画
- 読み方、作文、ノートの取り方
- 問うこと
- 学習の意識化と計画化
- 幼稚園・小学校教育の実際
- 日本の学び方学習との比較
- 三 わが国における学び方学習の展開
- 1 問題解決学習の歴史
- 生活単元学習の目指したもの
- 生活単元学習から問題解決学習へ
- 問題解決学習の一典型「西陣織の研究」
- 狭義の問題解決学習の特質
- 問題解決学習の見直し
- 問題解決学習の新しい展開
- 2 日本学び方研究会の学び方学習
- 第V章 学び方学習の基礎・基本
- 一 学び方の基礎
- 1 「まねる」学び方から
- 2 遊びと仕事、豊かな生活体験のなかで
- 3 意識的学習の始まり
- 二 学校で育てる学び方学習の基礎・基本
- 1 学び方の基礎的しつけ
- 2 覚える学び方から「問うことを学ぶ」学び方へ
- 3 問いを深め、ふくらます指導を
- 三 「基礎・基本」の教育と学び方
- 1 「基礎・基本」をどうとらえるか
- 2 「ゆとり」はなぜ必要なのか
- 3 教科内容の精選と教材の精選
- 4 教科の系統的指導と「基礎・基本」
- 5 「基礎・基本」の学び方
- 第W章 学び方学習から総合的学習へ
- 一 学び方指導による授業改革
- 1 授業を根本的に立て直す
- 2 どんな学力をつけるのか
- 3 学び方教育の必要性
- 4 読み方指導改善の具体策
- 5 問うことを学ぶ授業を
- 6 問うことを学ぶ授業の具体例
- 二 学び方を育てる授業の実践例
- 1 学び方指導の四分野
- 2 喜んで書く一年生の作文の授業
- 3 「問い心」を育てる理科の授業
- 4 「問い心」を育てる中学校「国語」の授業
- 5 「問うことを学ぶ」高校「国語」の授業
- 三 総合的学習の学び方
- 1 総合的学習のあり方
- 2 「共生」の総合的学習(小学校六年)
- 3 総合学習教科「学び方」(中学校)教育の実践
- 「学び方(基礎コース)」の指導内容
- 「課題研究コース」の指導内容
- 「学び方」学習の評価
まえがき
二一世紀が間近に迫るなかで、これからの学校のあるべき姿をめぐり世界各国でさまざまの教育改革案が提起されている。わが国では、中曽根首相の主導による臨時教育審議会の改革提言が、二一世紀に向けての学校改革の発端となっているが、諸外国の改革動向と比べてみたとき、どのような特色を持っているのだろう。
学校改革の提言が国内外で花盛りともいうべき様相を呈しているのは、それだけ現在の学校がさまざまの問題をかかえ、病んでいるということの証しでもあろう。二〇世紀は「児童の世紀」と宣言されたりもしたのだが、「きれる」「むかつく」「やりたくねえ」と荒れる子どもや登校拒否、学級崩壊などで呻吟する現在の学校は、まさに世紀末的な病理現象で苦しんでいるともいえる。
少子化の時代に入り、現在の子どもたちは、かつてに比べ格段の物質的豊かさや便利さのなかで暮らし、一人ひとりにかけられる家庭や学校での教育の質や量は、より充実してきているはずなのに、実際には、子どもを取り巻く教育環境に多くのマイナス要因があり、問題が噴出しているのである。
そのなかで私がもっとも深刻に受けとめ、重視しなくてはいけないと思っているのは、「見ない」「聞かない」「知らんぷり」のさめた子ども、「できない」「動かない」「遊べない」といった何事にも「やる気」を失った三無主義の子どもの増大である。これは、「やる気」の座である大脳新皮質・前頭葉の活動の強さの「発達不全」の結果であろうといわれている(本書第V章参照)。この「型」の子どもはかつては小学校に入ると少なくなり、自然に無くなっていったのに、現在は小学校で二、三割もおり、大きくなってもなかなか減っていかないという。
これらの「新しい荒れ」や三無主義が、教育の不足からというよりも、むしろ過剰からきているところに、現在の子どもの不幸があり、問題の複雑さがある。子どもは、毎日がいわば「勉強」漬けになっている。学校だけではなく、塾、家庭教師、パソコン教育機器、宅配の学習テスト雑誌などによる「勉強」が子どもの生活を分刻みに刻んでいる。その過剰なまでの教育が、子どもの心身に異常をきたしかねない「反教育」の要素を含んでいるのである。
二一世紀初頭を目途に完全学校週五日制への移行を実施し、子どもたちに「ゆとり」を確保するなかで、「生きる力」をはぐくむことを基本にする教育改革を提言した中央教育審議会も、このような状況認識を根拠の一つとしている。その上で中教審答申は、「これからの学校教育のあり方」として、「知識を一方的に教えこむことになりがちであった教育から、子どもたちが、自ら学び、自ら考える教育への転換を目指す」ことを、改革目標の第一に掲げた。
私が、この本で真正面に取り組み、くわしく検討してみようと思ったのは、中教審によるこの学校改革の行方である。また、その改革提言を受け、「これまでの学校教育の基調を転換する」ものとして教育課程審議会が提案した「教育内容の厳選」「基礎・基本の確実な定着」「総合的な学習の時間」の創設などが、学校における子どもたちの「学び方」にどのような転換をもたらし、日本の子どもたちの将来に何を約束するのかということである。
私は、「何を、どう勉強したらいいのか」「勉強の仕方がよく分からない」という子どもたちの多くから訴えられる悩みに、日本の教師はもっと真剣に耳を傾ける必要があると考えている。自分の教え方に工夫を凝らすことはあっても、「何を、どう学ぶのか」、その学び方を子どもに教えるという慣わし、あるいは義務感が、日本の教師にはこれまで比較的乏しいと思うからである。その意味で、私は今回、中教審および教課審が、「自ら学び、自ら考える教育」の実現のために「学び方」教育の重視を訴えていることに賛成する。
しかし、同時にその改革提言のなかには、私にとって気にかかることがいくつかある。「基礎・基本の徹底」とか「確実な定着」を図るということが一方で言われながら、「多くの知識の習得に偏りがちであったこれまでの学校教育の基調を転換」するということが、「学び方」教育の前提としてつねに強調されていることである。つまり、「自ら学び、自ら考える力」の育成と「多くの知識の習得」ということとが、何か相容れない矛盾するものとしてとらえられているのではないかということである。
教育界の一部にあるそのような見方を反映してか、今日教育ジャーナリズムを賑わしているのは、もっぱら今次改革の目玉としての「総合的な学習の時間」に学校と教師はどのように取り組むかという問題である。それが、これからの学校と教師に突きつけられた新しい課題であるだけに、マスコミの関心がそこに集中する傾向があるのは当然のことかもしれない。けれども、そのために「基礎・基本の確実な定着」を保障するというもう一つの課題をうっちゃってしまっていいものだろうか。
「自ら学び、自ら考える子ども」の育成は、「基礎・基本の確実な習得」を基礎にして初めて成り立つというのが、私の持論である。
したがって、週二、三時間の「総合的な学習」を通して「生きる力」の育成を図ることは、確かに現代的な課題として大切であるが、それとともに、あるいはそれ以上に教師にとって大切な課題は、全教科の学習にかかわる「基礎・基本」の確実な学び方を子どもの身につけさせることにあるというのが、私の主張である。
子どもを「自ら学び、自ら考える」学習の真の主体者に育てるためには、子どもの主体性と教師の指導性とを統一した学習論を確立することが必要である。
勉強嫌いを生み、学校嫌いを生み出す学校というのは、結局のところ、子どもが求めているものと学校が教えようとするものとが食い違うところからきている。
教育内容を、すべての国民にその確実な習得を保障すべき「基礎・基本」に精選するという場合にも、学問の現代的達成に依拠し、学問の体系のなかからもっとも基礎的・基本的な内容を選びとると同時に、学び手である子どもの本質的な要求に応えるという観点からの吟味と選択が必要である。自ら学ぶ意欲や主体的に学ぶ力を身につけるという学習もそのときにはじめて可能となる。
このようにして、二一世紀に生きる子どもたちの発達に真に明るい展望を切り開く「学び方」を現代の学校において実現する方途を、これまでの内外における教育実践と学び方の研究のなかに探りだすことが、私の本書執筆の基本的ねらいであった。
そのような本書のねらいが、多くの人の関心を得て、学び方学習の発展にいくらかでも寄与することができればと願っている。
遠慮のないご批正をいただければ幸いである。
/柴田 義松
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- 明治図書