オピニオン叢書 緊急版子どもの求めに立つ総合学習の構想新しい学校教育の実現をめざすフィロソフィーとヴィジョン

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21世紀をたくましく生きる子供には何が必要か。基礎的・基本的な学力と課題解決活動。その育成にも大きくかかわる総合的学習の展開をどうするか、理論と実践で問題提起。


復刊時予価: 2,618円(税込)

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電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-001018-6
ジャンル:
総合的な学習
刊行:
3刷
対象:
小・中・他
仕様:
A5判 168頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

もくじ

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はじめに
1 人間形成のための構想
一 「総合的な学習の時間」の新設の「趣旨」と「ねらい」
(1) 「総合的な学習の時間」の「趣旨」
(2) 「総合的な学習の時間」の「ねらい」
(3) 「総合的な学習の時間」における「学力」観
(4) 「学ぶこと」と「生きること」との統一・連続
(5) 子どもが育つ筋道
二 問題解決学習で育つ力
(1) 「問題」とは何か
(2) 「問題解決学習」で子どもが育つ場面の分析
(3) 子どもたちを「困らせる」こと
(4) 子どもを見守る教師の構え
三 経験主義カリキュラムの再評価
(1) 学習活動を構想する基本原理
(2) 学習活動の「総合性」
(3) カリキュラム原理の転換
(4) 「経験」としての密度が濃い「体験」
(5) 学習活動の構想・展開の観点
2 学校づくりのための構想
一 「待ち遠しくてしかたない場」としての学校
(1) 提起された「新しい学校観」
(2) 「旧い学校観」からの脱却
(3) 「楽しくて一生懸命になる活動」が待っている学校
(4) 「学力」を確かなものにする筋道
(5) 「画一化と競争」の原理から「個性と共生」の原理へ
(6) 地域における充実した「生き方」
二 子どもについて語り合う場としての学校
(1) 子どもの「育ち」を捉える見方
(2) 校内研修のもち方の転換
(3) 「素晴らしい学習活動」について
(4) 「学級崩壊」に強い体質の学校体制
(5) 管理職の「胆」と教師の意欲
3 地域の中での学校づくり、地域と一体となった教育活動のための構想
一 地域の人と出合い、好きになること
(1) ゲスト・ティーチャーの位置づけ
(2) 人と出合い、かかわり合う体験としての設定
(3) その後の繰り返しのかかわり合い
(4) 地域における学校応援団の形成
(5) 学校から地域へ
二 自ら求めての体験、かかわり合いの積み重ね
(1) 自ら動いての直接体験による子どもの成長
(2) 自らの必要感に基づいての地域へ出ての活動
(3) 地域の人に働きかける活動の設定
(4) 自ら動く意欲を高める教師の支援
(5) 自ら動ける子どもに育てるための前向きな配慮と手だて
三 地域の大人の「生き方」に学ぶ
(1) 大人のやっていることの観察
(2) 「夢」や「憧れ」をもつことによる自己コントロール
(3) 人は「人」によって動く
(4) 「大人」の「かっこよさ」を見せる
(5) コーディネーターとしての教師
四 「役立てた」という体験による成長
(1) 「参加型」の分類と検討
(2) 誉められ、ありがたがられ、認められることによる成長
(3) 「参加型」体験による学習活動の事例
(4) アイデンティティーの形成
五 子どもの学びの姿の地域への発信
(1) 活動経過の逐次的発信
(2) 地域の人々に向けての発表活動
(3) 地域の人々による学びの評価
おわりに

はじめに

 「総合的な学習の時間」は、二十一世紀における新しい学校教育を実現するための中心的な柱である。

 「総合的な学習の時間」の構想は、もちろん、どういうカリキュラムを、どういう活動方法で実施するのかを明確にしてはじめて具体的なものとなる。

 しかし、新しい学校教育を、「総合的な学習の時間」への取り組みを通じて実現するためには、何よりも、次のことが不可欠である。


 「総合的な学習の時間」を通じて、どのような教育活動を行うかについての、確固としたフィロソフィー(教育的価値観)とヴィジョン(教育的理想像)をもつこと。


 どこかの学校で行われた、あるいは、何らかの書物で紹介されていた、いわば、出来合いのカリキュラムや活動方法を真似するだけでは、「総合的な学習の時間」を時間数として消化するだけにとどまる。それでは、子どもにとってはやらされただけの活動にとどまり、教師にとっては忙しさが増しただけという思いしか残らない。

 それでは、学校教育に、何ら「新しさ」は生み出されない。学校における新しい教育活動を実現することはできない。目新しいテーマでの華々しい活動を行ったとしても、子どもに何の力も育たず、ただの「お祭騒ぎ」に終わってしまう。

 もちろん、他校で行われたカリキュラムや活動方法を参考にすることは否定しない。

 しかし、「総合的な学習の時間」への取り組みを通じて、次の点をどのようにして実現していくかについての、確固としたフィロソフィー(教育的価値観)とヴィジョン(教育的理想像)をもたなければ、新しい学校教育の在り方を具体化していくことはできない。


T 子どもたちを、人間として、どのような人間に育てていくのか。

U 学校を、子どもたちにとって、教職員にとって、どのような場としていくのか。

V 学校を、地域とどのように連携させていくのか。


 繰り返し言うが、「総合的な学習の時間」は、二十一世紀の学校における教育活動の在り方を変えていく中心的な柱である。学習指導要領に示された事例についての学習活動をさせるためだけの時間ではない。

 この点で、「総合的な学習の時間」は、単に総合的な内容についての学習ではない。

 総合的な教育活動を構想し、展開していくための時間なのである。

 したがって、「総合的な学習の時間」の実践を通じて、次の点の実現が方向としてめざされることが必要である。


@ 子どもが、人間として、たくましく温かい人間に成長していくこと。すなわち、子どもたちの「生きる力」をはぐくむこと。

A 子どもたちの育ちを捉える教師の力量が形成されるとともに、教師自身も自ら学び、成長していく活動となり、教師としての自己実現を感じ得る取り組みとなること。

B 地域の教育力を活性化し、地域と一体になった教育活動を展開していくことにより、地域の人々が、地域での充実した生き方を子どもたちに伝え、自らの生き方をさらに深めていく機会となること。


 子どもにとっても、教師にとっても、地域の人にとっても、楽しみな、価値を感じることのできる活動としていくことが重要である。子どもと教師、地域の人々が一体になって、そのような意味で総合的に構想され、展開されていく教育活動であることが望まれる。

 このような点を、具体的に実現していくためにも、「総合的な学習の時間」の構想と展開のためには、どのような教育活動を実践するかについての、確固としたフィロソフィー(教育的価値観)とヴィジョン(教育的理想像)をもつことが不可欠である。言い換えると、子どもを育てることについての豊かな教育的な見識と、確実に厳しくそれを実現していく「胆」が必要なのである。

 先のT〜Vに対応して述べれば、本著における筆者の主張は、次の点にある。


T 「総合的な学習の時間」では、「楽しくて一生懸命になる活動」にとことん取り組ませることを通じて、子どもたちに、@自分の力でものごとをやり遂げる能力と意欲、A人と温かくかかわり合う能力と意欲を育てることをねらいとする。

U 「総合的な学習の時間」を通じて、子どもたちにとって学校を、「待ち遠しい場」とすることにより、前向きで自律的な生活への構えを形成する。

 また、「総合的な学習の時間」を通じて、教師が子どもの育ちを具体的に、温かく捉えて生かす力量を形成することにより、学校を日常的に子どもについて温かく語り合える職場とする。

V 「総合的な学習の時間」を通じて、地域の教育力を活性化し、まとめ上げ、学校を地域の教育活動のセンターとしていく。


 このような視野と展望において、「総合的な学習の時間」における学習活動を構想し、展開していくことが求められる。「総合的な学習の時間」への取り組みを通じて、どのような教育活動、どのような学校づくり、どのような地域との連携を実現していくのかが、重要なのである。

 言い換えると、このような視野と展望をもたずに、また、確固としたフィロソフィー(教育的価値観)とヴィジョン(教育的理想像)とをもたずに、「総合的な学習の時間」に取り組んだとしても、結局は、形式的に時間数を消化しただけの、あるいは、ただ「這い回った」だけの活動に終わってしまう。そうなると、将来、「総合的な学習の時間」が、「低学力」や「学力崩壊」を引き起こしたと、非難の対象になりかねない。

 「総合的な学習の時間」における学習活動こそ、子どもたちの確かな学びへの意欲を育て、確かな学力を育てるのだということを明確に主張し、またそのための方途を明確に示すことが必要である。むしろ、「総合的な学習の時間」は、「低学力」や「学力崩壊」を防止する切り札なのである。

 この点についてさらに言えば、筆者は、子どもたちが「やらされる学習」に慣らされ、「意欲崩壊」をきたしていることが、「低学力」の原因であると認識している。「総合的な学習の時間」において、「自らやり遂げる学習」を積み重ねさせ、「意欲」を育てることこそ、確かな学力を育てるための基盤づくりとして不可欠なのである。

 筆者は、「総合的な学習の時間」への取り組みを通じての新しい教育の実現に、二十一世紀のわが国の盛衰がかかっていると考えている。成熟しつつも、活力のある社会の維持・発展は、未来の担い手である子どもたちを、どのような人間に、どのようにして育てていくかにかかっている。「総合的な学習の時間」における学習活動を、ただの「お祭騒ぎ」のような活動に終わらせず、子どもの「生きる力」を厳しく、そして確かに育てていく教育実践としなければならない。

 今回の著におけるアイデアも、これまでの『問題解決学習のストラテジー』『問題解決学習で「生きる力」を育てる』と同様に、全国各地の先生たちと授業研究・子ども研究に取り組む中から、「具体を通じて」生まれてきたものである。筆者の教育観、学習観、子ども観を、「総合的な学習の時間」の構想という視点から、全力で論じたつもりである。論点や主張の重複している箇所も多々あるが、それだけ強調したい点であるとお許しいただきたい。

 「総合的な学習の時間」に正面からとことん取り組むことによって、新しい学校教育の在り方を実現しようという「志」をもつ先生たちに、本著が勇気と希望を与えるものとなれば、何よりの幸いである。

 最後に、いつも拙著の企画について温かく相談に乗ってくださり、また、具体化のための有意義な議論の相手となってくださる樋口雅子編集長に、心より感謝申し上げる。


  2000年3月   /藤井 千春

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