生活指導 2006年12月号
子どもから学び子どもと出会う―若い教師からのメッセージ―

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生活指導 2006年12月号子どもから学び子どもと出会う―若い教師からのメッセージ―

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ジャンル:
生活・生徒・進路指導
刊行:
2006年11月8日
対象:
小・中
仕様:
A5判 124頁
状態:
絶版
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目次

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特集 子どもから学び子どもと出会う―若い教師からのメッセージ
子どもから学び子どもと出会う―若い教師からのメッセージ
大和久 勝
若い教師への手紙
子どもから学び子どもと出会うために
大和久 勝
実践・小学校
カイちゃんがやんちゃな姿になるために
中山 ゆっき
コメント 中山実践について
子どもへの熱い思いと粘り強い実践に拍手!
今関 和子
コメントを受けて
Yとカイと生研と私
中山 ゆっき
実践・小学校
必ず理由があるよ
角本 昌紀
コメント 角本実践について
すがすがしい海の香りがした
溝部 清彦
コメントを受けて
結論は、きっと彼が出してくれている
角本 昌紀
実践・中学校
生徒会活動の現状とこれから
山口 俊一
コメント 山口実践について
迷いながら、揺れながら少しずつ前へ
本田 広行
コメントを受けて
可能性を信じて
山口 俊一
第2特集 花巻発・'06年夏―大会参加者の声
学習参加者の声
いつか子どもを愛せる日まで
おがわ せせらぎ
総会での発言から
小さなサークルの粘り強い活動
江崎 勝之
若い教師の声
寒くて熱かった岩手花巻!!
矢田 一哲
自主集会「若手の集い」
集まった!自主集会「若手の集い」
黒木 明枝
「非行」自主集会から
気持ちを話す・黙って聴く・一緒に泣く
北野 かおり
大会の仕事をして
全国大会の学童保育を担当して
濱口 智
開閉会セレモニー
楽しかった開閉会行事
澤野 郁文
今月のメッセージ
気になる暴言
安島 文男
若い教師のための子ども集団づくり12か月 (第9回)
小学校12月/保護者のつながりをどう創りだすか
丹下 加代子
中学校12月/進路問題に向き合おう
村越 規雄
実践の広場
私の教室
自慢の学校の案内板をつくろう
河野 茂
学びの素材
職場こそ学びの素材を得る場
柳田 良雄
すぐ使える遊び・ゲーム
競争しない・勝敗がない・罰もない“つながり合える”ゲーム
毛利 豊
部活動・クラブ活動の工夫
タイトルのない不定期部活通信
新田 行雄
子どもの文化事情
デュエルカードに夢中な男子
目黒 銀河
手をつなぐ―親と教師
退職後の出会いで改めて考える
境 悠紀子
心に残る子どもとの対話
自衛隊に行きたい
浜崎 洋
掲示板Y・O・U
福山 知世森 たみ子先田 美穂
案内板 集会・学習会のお知らせ
第48回全国大会報告
研究総括
折出 健二
〜集団の組織化と関係性と市民的自立〜
大会総括
坂田 和子
〜みんなで作り出した「明日の実践への希望」〜
現地実行委員会報告
伊藤 浩
〜第48回全国大会を振り返って〜
北から南から
各地の基調提案 埼玉
石井 幸雄
〜〈全生研埼玉支部二〇〇六年度基調提案〉子どもの生きづらさと向き合う集団づくりを〜
教育情報
子どもの参加の権利の行方
田代 高章
ホッと一息・コーヒータイム
私のオフタイム
三橋 政信
マンガ道場
濱武 準子猪俣 修
読者の声
10月号を読んで
生活指導特別講座 (第1回)
子どものなかの「自己」と「他者」
竹内 常一
全生研の窓
編集室だより
編集後記
大和久 勝

今月のメッセージ

気になる暴言

常任委員 安島 文男


 暴言はトラブルとしてどのような意味をもっているのか、これまで直接的な暴力行使に翻弄されてあまり考えることがなかった。暴力と同質のものなのか。自分の暴力性を解きはなつ「コトバ」なのか。暴力行為を抑止しようという意図が暴言のなかにはあるのか。それとも暴力に侵されつつある「自分」を恐れての呻き、身悶え、訴えなのかなどの疑問がある。

 数年前、「ブッコロシテヤル」という「コトバ」を発する男子に出会ったことがある。中学一年生で、授業中挙手しているのに指名しなかったり、指名しても答をまちがえたときに、「ブッコロシテヤル」と発する。驚いたが、聞き流していた。その「コトバ」の意味していることが理解できず、意味をもった「コトバ」として受けとめられなかったからである。それでも毎授業続くと気になってくる。

 そういうとき、女子の一人がぽつんと言った。「先生、やさしいんですね」。

 その言葉で気づかされたことがある。かれの「ブッコロシテヤル」は、自分自身に向けて叫んでいるのではないか、と。

 しかし、次の小学六年生男子の暴言は「ブッコロシテヤル」「死ね」「ウザイ」という短い切り裂くような暴言とは異なり、意味内容が明確に過ぎるように思う。

「てめえなんかなんで担任になったんだ。俺たちはお前なんか認めない」「お前のせいでストレスがたまる。お前なんか死ね! 教師やめろ!」「二階から飛び降りて死ね!バカ!アホ!くそが……」(二〇〇六年大会レポート、荒れ・暴力の指導分科会「崩壊教室の再生」)

 レポートを読んだとき、まるでわたし自身に向けて投げつけられたような気がした。加害者としての教師、加害としての教育……。これはやはり暴言となるのだろうか。暴言としては論理性をそなえすぎているとも思う。この男子は意味がわかって発し、担任を傷つけ、苦しませているということも察しているのだろうか。彼自身の内に投影された権威的な教師像に向けて発している暴言だし、かれの葛藤が暴言という形をとっているのだから理解して発しているわけではないと考えたいが、彼はわかっているし、傷つけているということも感じとっているのではないかと思う。問題は、にもかかわらず暴言を吐き続ける「かれ」がいるということではないか。

「ブッコロシテヤル」には自分に向けて発しつつ、絶望を深めるほどにその攻撃性を他者へ転じていくプロセスがあったかもしれない。それとは逆に、この小六の男子の暴言には自分に向けて発していた時期があったのではないか。それが最も身近で重要な他者への攻撃性・暴力性に転じられていくとき、実は自分自身への攻撃性ともなっていると理解すると、暴言の内容が明確にすぎるのは、自分を喪失していく恐れとともに、そのことの理解を求めていると受けとめられる。

 そして、そういう「今」を生きている子どもの状況が、否応なしに子どもと教師を対立するように導き、しかも激化させつつ集団化している。佐々木さんのレポート(対話・討論・討議づくり分科会「大荒れの中三を担任して」)には、「暴言の嵐」という記述がある。そして、「集団が壊れている」という言い方をしている。保護者の暴言も増加し悪質化している。他者の尊重どころか、他者の尊厳を侵害する社会がかつてないほどに広がっている。

 それは子どもにとって、未来を考えることが夢や希望を喪失させ、努力することが自分の能力への不信を深め、現実からの逃避が生活の破壊を招くような不安と恐れのある社会となっているということであろう。その生きにくさの危機を対立としてきわだたせているのが暴言ではないのか。

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