生活指導 2000年7月号
「個性・特色」を問う

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生活指導 2000年7月号「個性・特色」を問う

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ジャンル:
生活・生徒・進路指導
刊行:
2000年6月
対象:
小・中
仕様:
A5判 132頁
状態:
絶版
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目次

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特集 「個性・特色」を問う―学校間競争の中の教師たち
個別契約化・成果主義の中の教師たち
山本 敏郎
実践記録
学校リストラに勝ち残る
新谷 開
子どもと通い合える普通の学校をつくろう
桜 山女魚
われわれ流の学校づくり
吉田 拓也
はじめの小さな一歩となるのだろうか?
早川 豊
実践記録のコメント
生活指導運動家としての教師に期待されていること
山本 敏郎
新たな枠組み・新たな発想・新たな方法を
関 誠
コメントを受けて
「むかえうつ」気迫で
新谷 開
しんどさの中で人とつながる感動を求めて
桜山 女魚
あたりまえの学校づくりを
吉田 拓也
次への一歩を踏み出そう
早川 豊
特色づくりを地域自治の学校へ
大畑 佳司
「総合学習」を問う
プレゼンテーションの指導
小さな発見が大きな発見に
田中 新一
発表はパフォーマンスだ
池田 憲一
和光中学校の総合学習
遠藤 洋一
プレゼンテーション―問題提起から討論へ
浅野 誠
今月のメッセージ
学校間競争の拡大による非効率化と学校の空洞化
安島 文男
書評
中学教師に勇気を与える本
西内 みなみ
読書案内
「新自由主義」への対抗―平等論の現在
高橋 廉
子ども・若者文化考
ヒットソングが生徒会をかえるきっかけに
谷尻 治
小さな物語
寮での語らい
永田 眞裕
ため息と怒りからの出発
どうせなら俺が管理職?
金城 海人
学校リストラの現場から
フレクシビル化対応教員
塩崎 義明
読者の声
5月号を読んで
案内板 集会・学習会のお知らせ
投稿
「市民」・「社会形成本能」・「心理主義」
川村 肇
川村論文へのコメント
折出 健二
同時代を生きる教師たち (第1回)
ロマンの残映
鈴木 昭一
〜人との出会いの中で〜
ほっとたいむ サークルからの発信
若さいっぱい、明るい未来の渡生研
長谷 隆
全生研第42回全国大会参加要項
編集後記
荒井 伸夫

今月のメッセージ

学校間競争の拡大による非効率化と学校の空洞化

常任委員 安島 文男


 今、学校と教師が組み込まれようとしている競争にクリエイティブなものは感じとれない。

 むしろ一元的能力主義における偏差値の獲得競争以上に排除と抑圧をつくり出し、孤立化をすすめるものとならざるを得ないのではないか。通学区域の弾力化、中高一貫教育、飛び級制の導入、そして成績率の導入による教師の賃金獲得競争は企業が強力にすすめている合理化・効率化・リストラと同質のものであり、教育の市場化のいっそうの具体化である。だからこの競争の結果として、学校の統廃合、教師の退職の強要が押しすすめられていくことは目に見えているし、すでに実施されている。

 問題はこれらが競争のシステムの再活性化のための施策として位置づけられることにより、多様な教育選択コースの設置を正当化し、その設置のベースが経済階層にあることを隠蔽し、そしてそのことによる大量の子どもの切り捨てが当然視されていくことである。個性と多様化のもとに「平等主義」的教育制度は崩壊させられ、若年単純労働者を生み出す「公立学校」が創出されることになる。学校間競争の拡大による公教育の縮小である。

 現在生じている「新しい荒れ」という子どもたちのトラブル・問題行動が社会的な矛盾の反映であり、制度的な問題だとしたら、それは「学習しない子どもたちの再生産」を政策として押しつけられた学校の空洞化・スラム化以外のなにものでもない。さらに荒れの一つの傾向としてトラブルが自分くずしとなりつつも、自分つくりの契機となりえず、トラブルを起こすほどに自我を溶解させていくような傾向は、現在の学習が未来を切り開くものとなりえず、可能性を閉ざすものに転化していることの現れであり、そのことを察知しはじめている子どもたちの危機的行為ということになるであろう。

 教育を市場と見なす競争のシステムが構築されていくにつれ、学校が空洞化していくのは必然であろう。

 その空洞化のあらわれは、学校に創造と自由を体現していくことで、子どもたちの夢と希望を紡ぎ、共に明日を切り開く存在である教師の変容としても顕著である。多くの教師は学習しない子どもたちの存在に、つかれ、あきらめ、無力感に支配されつつある。学校から撤退するか政策への批判的精神を放棄し、結果としてそれに従属することによって教育困難から逃れようとしている。かつてわたしたちの先輩の民主的な教師たちは「わかる授業・たのしい授業」を掲げ、授業内容を理解できない子どもの苦悩を自分自身の課題としてきた。さらにおちこぼし問題として主体的に受けとめ、その克服に懸命な努力を重ねる驚嘆したいほどのモラルの高さを示してくれた。それが今や崩れはじめ、勉強のできない子どもに苦痛を感じなくなってきているか感じないようつとめざるを得ない状況がつくられつつある。

 こうした事態が深刻なのは、親自身のなかにもそのことを問うことをやめ、政策に同調しはじめている傾向が生まれていることである。我が子の低学力・学習放棄にあきらめ、無関心を装わないことには親子としてやっていけないところまで追い込まれている事態を反映してである。

 これらを単純に新学力観による低学力政策としてすますわけにはいかない社会の大きな変化のひとつの現れであろうが、わたしたちに求められることは、この学校の、教育の危機の深化はこれまでの子ども観・学習観の転換を余儀なくさせつつ、危機を克服していく可能性をどのように胚胎してきているかということを見出していくことであろう。

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