教育オピニオン
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学校は幸せになるための場所である
学習院中等科教諭岩ア 淳
2012/6/1 掲載

アランの『幸福論』
 先日、書店に立ち寄ったところ、1冊の文庫に目がとまった。アランの『幸福論』である。カバーのイラストはライトノベルを思わせる絵柄と色彩だった。
 「近代文学の名作の文庫カバーを若い世代向けに合わせたものに変えたところ、よく売れるようになった」という話を耳にしたことがある。そうした効果を期待してのことなのだろうと思ったのだが、一方で「なぜアランなのか」といささか不思議な気がした。その文庫は新訳ではなく、2011年に新装版として復刊されたものだった。
 帰宅してから『幸福論』をネットで検索しているうちに、NHKの「100分de名著」という番組で2011年の秋に取り上げられたことがわかった。番組自体は何度か見たことがあるのだが、『幸福論』が取り上げられたことは知らなかった。

幸福となる方法
 アランの『幸福論』をぱらぱらとめくる。子どもたちに幸福となる方法をしっかり教えるべきだという意味の一節に目がとまる。「幸福となる方法」の冒頭の部分である。100年ほど前に書かれたこの言葉は、現代でも色あせていない。
 現代は価値観が多様化しているという人がいる。そのとおりだと思う。不透明なことが多く、どれが正しく、どれが重要でないかということがわかりにくいという人もいる。そのとおりだとも思う。わたくし自身、自信をもって断言する人は信用していない。それは単なるはったり屋である。思慮深い人、謙虚な人の物言いは、控えめで配慮に満ちている。
 しかし、子どもたちには、教えるべきことはきちんと教えなければならないとも考えている。価値観が多様化していることや不透明なことが多いことは、教えないことの理由にはならない。
 「教師の価値観を押し付けてはいけない」ともいわれる。確かに、誤ったことを教え込むのは許されることではない。しかし、価値観の押し付けを恐れるあまり、教師が教えるべきことを教えないのも同じように罪深い。教育は文化の教授という一面をもつ。大切なことを教師が教えないで、いったい誰が教えるのだろうか。

学校は幸せになるための場所である
 2年前にも「学校は幸せになるための場所である」という題の文章を書いたことがある(『教育科学 国語教育』2010年5月号)。「学校は幸せになるための場所である」という言葉は、「なぜ学校に行くのか」あるいは「学校とはどのような場所であるべきなのか」という問いに対するわたくしの1つの答えである。
 現実の学校は天国ではないかもしれない。人間が集まれば、そこにはなにがしかの苦痛がともない、ある程度の忍耐が必要となるものである。だからといって、学校が苦行の場でしかないとすれば、それは不幸なことである。
 「学校は幸せになるための場所である」という前提のもとに、指導者が努力を重ねていく。21世紀の日本の学校教育を改善していくためには、そうしたことが不可欠であるとわたくしは考えている。
 「幸せになるための場所」には、2つの意味がこめられている。1つは「今日、行って楽しいと思える場所」であるということ。そしてもう1つは「卒業後充実した人生を過ごせるように力をつける場所」であるということ。つまり、在学している現在も卒業後の未来も、人は幸せであるべきであり、その実現のために学校は存在しているのである。この2つが満たされて、学校はその機能を十全に果たしているといえる。

雨の日に明るい顔をすること
 「幸せであるかどうか」ということは、客観的に判断するような性質のものではない。その人自身の感覚によるものである。換言すれば、幸福を感じ取る能力の差によって、幸せかどうかが決定されるということである。不足しているものを数えてばかりいたのでは幸せにはなれない。
 人間の幸福にはさまざまな形がある。その中の1つに、職業を通して社会貢献をする喜びがある。そして、職業を通して自己実現をする喜びがある。そのような幸福は簡単に手に入るものではない。長きにわたる努力が必要である。楽なことばかりではないが、人生の充実はそうした部分に支えられている。
 まずは正業につくこと。一人前の社会人として活動していくこと。そのこと自体がすばらしいことであり、幸福なことである。
 こうしたことをきちんと伝えていかなければ、子どもたちにはわからないのである。学習することを時間の無駄のようにとらえたり、まじめに働くことを軽んじたりする子どもは多い。さまざまな情報の中から、子どもたちは無意識のうちに自分に都合のよい論理を選択する。それは近視眼的に楽な道を選択する考え方である。遠くのことはまったく見ていない。遠くを見据えて道を示すのが、大人の重要な役割である。
 何のために学習するのか。それが理解できない子は、いつか意欲を失ってしまう。「他者からの評価」や「勝利の喜び」は、学習の契機ともなり、意欲を持続させる薬ともなるが、それにばかり依存していたのでは、ゆがんだ世界観に支配されたまま、多くの者が虚無感や敗北感をかかえることになる。
 一人一人が幸福になることにも、社会全体が幸福になることにも、根本の部分で学校教育は大きなかかわりをもっている。教員の仕事はきわめて重要なものである。
 ただし、現場にいれば、楽しさを実感できる日ばかりではない。先の「幸福となる方法」は、天気の悪いときでもいい顔をすることを勧めている。アランは高等学校の教師だった。彼もまた楽しい毎日ばかりを過ごしたわけではないだろう。アランの言に従い、好ましくないことがあっても、明るい顔で子どもたちと向き合っていきたい。

岩ア 淳いわさき じゅん

学習院中等科教諭。学習院大学・早稲田大学講師。
早稲田大学教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程満期退学。国語科教科書編集委員(教育出版)。
【主な著書】『言葉の力を育む』『古典に親しむ』『授業改善をめざす』(以上明治図書、2010年)、『「新しい国語科教育」基本指導の提案 伝統的な言語文化の指導を中心に』(さくら社)

コメントの一覧
3件あります。
    • 1
    • 日高辰人
    • 2012/6/2 16:11:25
    まったくそのとおりですね。
    学校は生徒も教師も職員も幸福になる場所ですよね。
    • 2
    • 花田修一
    • 2012/6/2 16:44:28
    筆者の考え方に共感します。アランの『幸福論』は50年ほど前に読みました。懐かしい本です。
    現在、大人も子どもも生きていくのが大変な時代です。「学校が幸せになる場所」であるということは、
    「家庭が幸せになる場所」「社会が幸せになる場所」、そして何よりも「大人が幸せ」でなくてはならないと考えます。
    いったい「幸せ」とは?みんなで考えていきたい課題だと思います。
    • 3
    •  芦野 弥生
    • 2012/6/4 11:53:28
     岩崎先生のお考えに賛同します。 「幸福」になるための学校で、特に小学校でその目的を見失って、教師も児童も「幸福」になるための作業を忘れがちであった場合に、漢字の読み書きはおろか、ひらがなで五十音さえ書けないといった中学生を産み出します。
     社会全体が「幸福」になれるよう、子供たちとお付き合いしていきたいものです。
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