- はじめに
- 序章 教師が正しく評価される時代がやってきた!
- *学習者志向(ユーザーオリエンテッド)
- *天動説から地動説へ
- *立場が考えを決める
- *教員評価や学校選択制を求めている
- *平成の教育維新
- *新しいプロ教師論
- 第1章 誰のために学校のベルは鳴る
- 1 誰がために学校はある!
- *校舎の原型
- *統一設計という思想
- *学校は誰のため?
- *異界としての学校
- *「小中カンゴク・高校ジゴク・大学レジャーランド」
- *学びのサポーター
- 2 誰のための教師?
- *教育学部は何を学ぶ?
- *権威の演出
- *結婚前は両目を開けて
- 3 究極のサービス業
- *ヤバイ弁護士
- *医療も同じ
- 4 先生は公務員です
- *あなたは何者ですか?
- *「あなたは」にショック
- *授業の真髄
- 5 学習者は大事なお客さん
- *お客が来なくても首にならない!
- *「市場」が決める
- 6 説明責任
- *保護者への説明も給料のうち
- *説明責任
- 7 どんな教師になりたいか
- *こんな教師にはならない!
- *学習者が決める
- *政治家も選ばれる、教師も選ばれる
- 第2章 職業としての教師をメタ認知する
- 1 正しい教師批判
- *批判されない職業
- *制度的批判
- *誰のための改革か
- *会議のミッションと存在理由
- 2 教師本位主義
- *聖職者としての教師
- *誰から給料をもらっているか?
- *教育しがらみ共同体
- 3 教師の職業倫理
- *責任感
- *傍観者的な評論
- *ホスピタリティ
- *身内に厳しく!
- 4 お客の悪口を言わないで……
- *先生のタマゴ
- *親心だけではない!
- *こんなケースはどうする?
- *親の立場に立つ
- 5 教師は顔つきで勝負する!
- *「人の顔色は家の門戸の如し」
- *医療コーディネーター
- 6 「惑溺」からの自由
- *変化し成長する自我
- *「惑溺」からの自由
- 第3章 すぐそこまで来ている「学習者から評価される時代」
- 1 先生の自己意識
- *「先生」らしく
- *免許状による保証
- *受講生によるお墨付き
- 2 子どもという他者
- *子どもは他人
- *善かれ!と思って
- *体罰もしつけ?
- *体罰教師は熱心なのか?
- *二重(ダブル)規範(スタンダード)
- 3 無意識の偽善者
- *一体感
- *デモシカの効用
- *熱心さの競争
- *熱心だけど方向音痴
- 4 優先順序の問題
- *方向を定める……プライオリティをつける
- *結果をあいまいにする弊害
- *能力はすべて同じ
- 5 新しい学校像を模索して
- *病からの脱却
- *「民はよらしむべし、知らしむべからず」
- 6 学習者に評価される時代が来ている!
- *学校自己評価制
- *学習者の評判は?
- *悪いのは生徒だけではない
- *改正学校教育法
- *規制改革の提言と閣議決定
- *評価の効果
- 第4章 プロを目ざせば次世代が見える
- 1 親の関心を知る
- *子どもの先生への関心
- *人柄への関心
- *やり方論が大事
- *指導力と学力
- 2 親の気持ちになる
- *先生にお任せしたい
- *地域との連携
- *学校への不信の対応
- 3 プロの心構え
- *親と教師の違い
- *「冷静な頭と温かい心」
- *言い訳無用
- 4 自分流の仕事術
- *プロ意識
- *授業こそわが命
- *つまらない教科書、売れる学参!
- *塾との連携?
- *塾から盗め
- 5 ワタシ流の参考例
- *ワタシ流儀で良い
- *「万能ノート」
- *書くことは生きること
- *言葉の遣い手のプロ
- 6 課題解決型教師
- *教育弱者を救え!
- *立ち上がった教師と親
- *最後に
- おわりに
はじめに
〇八年の夏は、全国の学校教師特に公立学校教師にとっては肩身が狭く、とりわけ暑苦しい思いをした季節だったと思います。一部の、管理職や教育委員会の不心得な者たちが、教員採用や管理職登用などの人事で不正をはたらき、お陰で全国津々浦々、教職についている者は、みんな不正なワイロを送って採用され、あるいは校長になったのではないかと疑いの目で見られ、いい迷惑をしたことでしょう。
今回の大分県の教員採用汚職の報道を見て、はからずも論語の次のくだりを思い出しました。
孔子の友人である葉公が、羊を盗んだ父親を子どもが告発した話をします。すると孔子は父は子のために隠し、子は父のために隠すというエピソードを持ち出し、これをたしなめます※。葉公が親を盗みで告発した子どもを称揚したのに対し、孔子は、親子が互いに悪事をも隠してかばったのを美風として称揚した有名なエピソードです。
学校でも悪さをした生徒たちを、教師が追及しても互いにかばい合います。クラスメイトも告発することはチクリとして嫌います。つまり、「正義」よりも仲間内の「信義」や友情のほうを尊重するのです。また、教師もクラスの「和」とか「チームワーク」などを、常日頃、児童生徒に言い聞かせていることでしょう。思わぬところに儒教精神が生きています。
教師は学校現場で児童生徒に対して、あるいは保護者に対して、この「正義」の原則と「信義」を重んじる風土のはざまで悩むのです。悪グループの生徒たちなど仲間内の信義や友情を第一に考えますが、そのために悪グループがはびこり弱い生徒がいじめられたら、教室の正義を守ることはできません。
大分の事件で明らかのように、教師の世界でも仲間内の信義のみを大事にしていれば、「教員の子は教員・校長の子は間違いなく教員になれる」などと、陰で囁かれるようになる現実が生じ国民の不信をかいます。また、上の覚えめでたい者が、管理職に登用される。実力よりも人脈の引き、つまり、コネがものをいう。こうした不公正な悪しき慣習は、コネはないが実力もあり情熱もある若者を、教育界に参入することを妨げることになります。
大分の件を契機に、残念ながら、現在、国民の目は学校教師の根本的なあり方に向けられています。むろん大多数の教師は、自分の使命に忠実で教員仲間の信義よりも、正義やルールを尊重すべきことを児童生徒たちに教え、また自身、それを実践していることでしょう。大分県の教育幹部のように、自分たちの仲間内の論理ではなく、広く国民に理解され支持される職業人としての教師像とは何かを模索しているに違いありません。
ただ、人間の習性として、一度、タコツボ型の教師ムラ社会に入り込むと仲間内の論理に取りつかれ、自分を見失い自己批判・自己改革の精神を失いがちになります。「教育は不易流行」と言いながら、その実、「不易・不易」となり、肝心の子どもや親や家庭や社会の変化に鈍感になってしまい、知らず知らずのうちに感性が鈍磨し適応能力が低下します。
現職の教師もここは一度立ち止まって、もう一度、「教師であること」を突き放し距離をおいて見つめ直し、国民が求める「先生像」とは何かについて、謙虚に、これを考え直すことが必要ではないか。こんな思いで書いたつもりです。
大分の事件が明るみに出る前に書いたものですが、逆に、このように学校教師全般に不信感を持たれている時であるからこそ、従来の教師論とは全く異なった本書を公刊する意味があるのではと思っています。本書は、茶の間で交わされる教育の炉辺談話や、「日本の教育はこうあるべき」といった空理空論の類ではありません。学校教育を担っているプロの学校教師の望ましい姿を、長い教職の経験知と教育理論にもとづき書いたものです。
しかし、よくあるような「元教師による教師のための教師論」ではありません。自費出版はむろん企画本ですら元教師など教育関係者の書いたものは、ようするに「先生は偉い」から、いかにしてその権威の前に学習者(児童生徒と保護者を総称)を従わせるか、といった調子のものが少なからずあります。失礼ながら、その類のものは時代認識が決定的に欠如しており、夜郎自大(やろうじだい)になっているのです。これまでのものと違って、文字通り「元教師による国民のための教師論」であります。
学校現場で児童生徒や保護者と精神的に格闘しながらも、互いの信頼を構築するために、たえず教育とは何かを模索している教師。また、学齢期の子どもを持っているが故に、学校のあり方・教師のあり方にとりわけ興味と関心を持っている方々。また、より良い日本の教育のために「教師のあるべき姿」を模索している方々。こうした方々に本書を読んでいただきたいと願っております。
※ 「葉公(しょこう)、孔子につげて曰く、わが党に身を直くする者あり。その父羊を盗む。而して子これを証す。孔子曰く、わが党の直き者は、これに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きことその中にあり」(『論語・子路第十三』一部、表記を改めた)
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- 明治図書