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イギリスの道徳教育改革からみる日本の道徳「教科化」
東京大学大学院教育学研究科准教授片山 勝茂
2017/3/1 掲載

1 はじめに

 本稿は、イギリス(イングランド)の道徳教育の改革動向を具体例を交えながら紹介することで、日本における道徳の「教科化」について考える材料を提供したい。
 イギリスでは、日本のような特設の道徳の時間や教科としての道徳は存在しない。道徳教育にあたる内容は、主に人格・社会性・健康・経済教育(PSHE)とシティズンシップ(市民科)という2つの科目で取り扱われている。また、2010年5月の政権交代によって、道徳教育の改革動向にも大きな変化があった。以下、政権交代の前にまでさかのぼりつつ、現在までの道徳教育の主な改革動向をみていくことにする。

2 社会的スキルと感情スキルを伸ばす教育プログラム(SEAL)の開発と普及

 2010年5月に政権交代が起こる前、当時の労働党政権は数千万ポンドにわたる多額の資金を費やし、社会的スキルと感情スキルを伸ばす教育プログラム(SEAL)の開発と普及に熱心に取り組んでいた。SEALはPSHEの授業や全校集会などでの利用を想定したもので、各学校に教材パックの形で配布されるとともに、インターネット上で公開された。
 例として、「仲良くすることと、けんかすること」というテーマの初等学校向けのSEALを取り上げよう。児童は全校集会でテーマに沿った物語を聞いたうえで、物語について話し合いを行う。そのうえで、隣の人に笑顔を向けたり、相手が嬉しく思うことを言ったりと「仲良くする」ことを簡単に実践するとともに、自分が好きな人や寂しくしている人にどんなことができるかを考え、後で実際に実行するように促される。クラスでの学習活動には学年に応じて様々なものがある。例えば、6年生の場合、グループワークにおいて建設的に他者を批判し、他者からの批判を受け止める練習をしたり、他者との違いが友達関係を築くうえで障害になっているシナリオを読み、話し合いを行ったり、他者とけんかになりかねない場面で「私」を主語にした話し方を用いて、けんかにならないようにする練習をしたりする。最後に、まとめの全校集会で、学んだことの発表と振り返りを行う。
 2010年の政権交代時点で、SEALは初等学校の約90パーセント、中等学校の約70パーセントで導入されており、現場の教員から一定の支持を得ることに成功していたと言える。

3 人格・社会性・健康・経済教育(PSHE)の必修化の方針と頓挫

 SEALはあくまでも社会的スキルと感情スキルに焦点を絞ったものであり、現在と将来の生活のための教育であるPSHEの重要な構成要素であっても、PSHEに置き換わるものではない。例えば、アルコールやタバコ、ドラッグといった薬物との付き合い方、健康や安全、リスクについての教育、性教育、キャリア教育、金銭に関わる能力といったものは、PSHEでよく扱われるものの、SEALでは十分に扱いにくいテーマである。
 PSHEはほとんどの学校で何らかの形で提供されているものの、法令上の必修科目ではない。そのため、PSHEの質には学校によってかなりのばらつきがある。独立した授業時間が確保されていない場合や、PSHEについての訓練を特に受けていない学級担任が担当する場合、質が低くなる傾向がある。そして、児童生徒の学習の評価の部分がとりわけ弱い。
 以上のような背景から、労働党政権は2008年10月にPSHEを必修化することで質を向上させようとする方針を発表し、2009年11月にそのための法案を下院に提出した。しかしながら、2010年5月の総選挙で政権交代が起こり、保守党と自由民主党の連立政権が誕生したたため、PSHEの必修化は頓挫したままとなっている。その後も、PSHEの必修化を求める声は様々な形であがっているものの、イギリス政府は、必修化が質の向上につながることはほとんどないため必修化は不要という姿勢を保っている。

4 PSHE協会によるPSHEの質向上のための取組

 2010年5月の総選挙後、連立政権はナショナル・カリキュラムの見直しを行い、2013年に改訂を行った。連立政権は英語・数学・科学といったアカデミックな科目を重視する形で改訂を行い、生徒に教えるべき事項を列挙したPSHEの学習プログラムはナショナル・カリキュラムに含まれなくなった。ただし、政府はすべての学校が児童生徒のニーズに応じたPSHEを提供すべきだとも述べている。そして、民間団体であるPSHE協会に資金提供を行い、優れたPSHEを行っている学校の事例を調査し、公表するとともに、各学校が独自のカリキュラムを開発するうえでアドバイスをするよう求めていると公表している。
 現行のナショナル・カリキュラムにPSHEの学習プログラムが提示されていないことを受けて、PSHE協会は独自にPSHEの学習プログラムを作成し、インターネット上で公表している。2013年に第1版を出した後、2014年10月に第2版、2017年1月に第3版と、社会の急激な変化に対応して継続的に改訂を重ねている。例えば第3版では、携帯電話の責任ある使用や、自分や他人の写真を求められたときにどう対応するのか、といった項目が加わった。これは、イギリスの学校で性的な写真のやりとり(セクスティング)が大きな社会問題になっていることを反映したものと考えられる。
 PSHE協会はまた、優れたPSHEを行っており、かつ学校全体も高く評価されている9校の事例調査の結果を2015年に公表している。事例調査の報告書は、それぞれの学校の概要と、学校長ないし学校上層部のPSHEについての見解を紹介するとともに、なぜその学校のPSHEが優れているのかを分析している。PSHE協会は優れた学校9校の共通点をまとめた分析結果も公表している。共通点としては、例えば、児童生徒の発達に即したPSHEの学習プログラムが学校のカリキュラムの中心に位置付けられていること、経験を積んでおり、熱意のあるPSHEのコーディネーター役の教員がいること、学校長を含む学校上層部がPSHEの重要性に理解を示し、学校全体をあげてPSHEの充実に取り組んでいること、コーディネーターによる学校での教員研修や初任者向けの研修が行われていること、学習目標と期待される学習成果が明確にされていること、児童生徒のニーズに応じて教員が授業の方向性を柔軟に変更できること、(問いを発するスキル、人の意見を聴くスキル、議論のスキル、チームとして協力するスキル、探究のスキル、リスクを見極めるスキルといった)様々な重要なスキルを育成する場としてPSHEが認識されていること、といった点があげられている。
 PSHEの質向上のための取組として、PSHE協会は授業案や教材を含む様々な情報をインターネット上で公表するとともに、PSHE関連資料の質保証を行っている。すなわち、PSHE協会に申請された資料を独自の基準に照らして審査し、基準を満たしているものに対して、PSHE協会によって質が保証されたことを示すマークを与えている。質保証の取組は好評であり、すでにいくつもの書籍や授業案、教材に質保証マークが与えられ、PSHE協会のウェブサイトで紹介されている。また、質保証の審査料はPSHE協会にとって貴重な収入源ともなっている。

5 ナショナル・シティズン・サービス(NCS)の導入と拡大

 2010年5月に政権交代するまで、労働党政権は2002年から新たに中等学校におけるシティズンシップ(市民科)をナショナル・カリキュラム上の必修科目とし、市民性を育成するシティズンシップ教育の普及に力を注いでいた。しかしながら、先に述べたように、政権交代後の連立政権はアカデミックな学力を重視する形で、ナショナル・カリキュラムを2013年に改訂した。シティズンシップは中等学校における必修科目としての位置付けそのものは変わらなかったものの、その学習プログラムは大幅にスリム化された。
 他方で、保守党のデービッド・キャメロン首相は、2011年からナショナル・シティズン・サービス(NCS)というプログラムを導入し、規模を拡大させている。NCSは15歳から17歳の若者を対象とし、2週間から4週間かけてグループで野外活動とスキルの訓練、社会奉仕活動(ボランティア活動)の計画と実施を行うもので、学校が休みとなる春、夏、秋の休暇期間中に、民間団体によって運営される。運営費のほとんどは国費であり、2014年には約58,000人が参加している。
 これまでのNCSの効果検証によって、チームワークやコミュニケーションの能力、レジリエンス(逆境に負けない力)、自分とは異なった背景をもつ人に対する態度、コミュニティに参画し、人助けを行う姿勢、選挙で投票しようとする意欲などが向上することが明らかにされている。イギリス政府は2010年から緊縮財政を続けているが、NCSに対しては極めて大きな予算(2015年から5年間で12億ポンド)をつけており、2020年までに16歳の若者の60%(約30万人)が参加できるようにする方針を示している。また、ナショナル・カリキュラムにおけるシティズンシップの学習プログラムを見直し、NCSとの関連性を明確にする方針も示している。さらには、2016年10月にNCSに法的基盤を与えるためのNCS法案を上院に提出しており、現在、法案は上院を通過して下院で審議中である。

6 人格教育(キャラクター・エデュケーション)への投資

 2014年7月に連立政権の内閣改造があり、保守党のニッキー・モーガンが教育大臣に就任した。モーガンはアカデミックな学力だけでなく、レジリエンス(逆境に負けない力)や、やり抜く力(グリット)といった人格的特性を育成する人格教育(キャラクター・エデュケーション)をも重視する方針を打ち出し、大規模な資金を投入することで、イギリスを人格教育の世界的なリーダーとすることを目指した。ここで念頭に置かれている人格的特性は、学校や将来の職場での成功を支えるであろうものであり、レジリエンスや自信、モティベーション、隣人として人を助ける姿勢、寛容と他者の尊重、誠実さ、好奇心など様々な例があげられている。
 教育省は2015年に人格教育の補助金を創設し、すでに行われている優れた人格教育の取組をさらに拡張させるため、もしくは、新しい革新的な人格教育の取組を促すため、14の団体に計350万ポンドの補助金(1年間)を与えている。補助金を受けた団体には、プレミアシップ・ラグビーやスカウト連盟、バーミンガム大学ジュビリー・センター、PSHE協会などが含まれる。このリストからもわかるように、人格教育は学校の内部でのみ行われるものではなく、学校の内外において様々な形で行われ得る。教育省は2016年にも同様に人格教育の補助金を出している。
 教育省はまた、人格教育の最も効果的な方法を研究し、エビデンス(根拠)を形成するため、2015年に教育基金財団に100万ポンドの補助金を出している。教育基金財団はランダム化比較実験の手法を用いたエビデンスの形成と情報発信でよく知られた機関であり、人格教育の効果検証においても可能な限りランダム化比較実験を用いる姿勢を示している。
 さらに別の取組として、教育省は2015年にイングランドの9地域から優れた人格教育を行っている学校ないし団体をそれぞれ3つずつ選び、賞金を与えるとともにその中から最も優れたものを選んで追加で賞金を与えている。2016年にも規模を縮小して同様の取組を行い、それぞれの地域から1つの学校ないし団体に賞金を与えている。
 以上の教育省の取組は、モーガン教育大臣のリーダーシップに負うところが大きい。2015年5月の総選挙後に保守党単独政権が誕生した際は、モーガン教育大臣は留任し、教育省の人格教育重視の姿勢は変わるところがなかった。しかしながら、2016年6月のEU離脱の国民投票の結果を受けて、7月にテリーザ・メイ内閣が発足し、教育大臣もジャスティン・グリーニングに交代した。グリーニング教育大臣は(現在までのところ)人格教育を重視しようとする姿勢を見せておらず、教育省からの人格教育への投資も減少ないし消滅していくことが予想される。

7 日本の道徳の「教科化」への示唆

 これまでみてきたように、イギリスの道徳教育の改革は紆余曲折を経て現在に至っており、その動向を一言でまとめることは難しい。しかしながら、そうした紆余曲折の中にも、日本における道徳の「教科化」について考える材料はいくつもあるように思われる。以下、3点に絞って私見を述べておきたい。

 まず第一に、道徳の「教科化」によって、道徳科では検定を経た教科書を使用することになるものの、教科書検定という仕組みは必ずしも教材の質の向上や授業の質の向上を保障するわけではないだろう。教材や授業の質の向上のためには、やはり実際に教材や授業案を使用してみて、効果を検証し、改善を図るとともに、教員の研修を行うという努力が欠かせないであろうが、そのためにはそれなりの時間と資金と人員が必要になってくる。
 イギリスの場合、限られた分野・期間ではあるものの、SEALのように政府が前面に立って教育プログラムの開発・普及を行ったり、各団体の取組に補助金を出したりしており、その中から日本でも参考になりそうな教材や授業案、教育プログラムが現れてきているように思われる。参考になりそうなものを探す際には、教育基金財団のウェブサイトが1つの手がかりになるだろう。教育基金財団は例えば、イギリスのSEALを含む様々な社会的スキルと感情スキルを伸ばす教育プログラムについて、大規模なエビデンスに基づいて中程度のコストで中程度の効果があると評価しており、導入する前に検討すべき点を複数あげてくれている。
 また、教科書において道徳の内容項目(中学校で22項目)の一つひとつについて別々の単元が用意されているようであれば、どうしてもすべての単元をこなすことが目標になってしまい、内容項目を適宜組み合わせてまとめて扱ったり、児童生徒のニーズに応じてあるテーマに重点的に時間をかけたりすることが難しくなることだろう。その場合、「考え、議論する」道徳科というキャッチフレーズとは裏腹に、「考え、議論する」時間的余裕や、道徳的行為に関する体験的な学習を行う余裕がなくなってしまうことが危惧される。
 さらには、日本にはこれまでも多くの教員が独自の道徳教材や授業案を開発し、自ら実践するとともに、一般に公表してきた歴史があるが、教科書の導入によってもしそうした営みが萎縮してしまうならば、大きな損失だと言えよう。

 第二に、道徳の「教科化」が行われても、引き続き(中学校においても)学級担任が授業を担当することに変わりはない。イギリス同様、日本においても、学級担任が道徳教育にどれだけ熱意と知見をもっているかどうかは、人によってかなりのばらつきがあることだろう。道徳の「教科化」が行われることによって、道徳教育への関心を高める教員が出てくることはあるかと思うが、どの程度、またどのくらいの期間、高い関心をもち続けてもらえるかは心もとない。
 イギリスの知見に照らすと、熱意と経験のある道徳教育推進教師を確保し、かつ学校長と学校上層部に道徳教育の重要性を理解してもらい、学校全体をあげて道徳教育の充実に取り組めるかどうかが、その学校における道徳教育の質に大きく影響してくることだろう。残念ながら、道徳の「教科化」を行うことで、ただちに上記のような体制が保障されるわけでないだろう。1つの手としては、学校長や学校上層部が実際に道徳科の授業をいくつか担当することで、教員や児童生徒に道徳科が学校で重視されていることを示すということが考えられる。
 イギリス同様、日本でも、道徳教育よりもアカデミックな学力の向上を重視するべきだという声は一定程度ある。したがって、道徳教育の質を向上させることは、アカデミックな学力の向上と相反するものではなく、むしろ相互によい影響を与え得るということを、教員や保護者に説得力をもって示すことが必要になるだろう。

 第三に、道徳科という学校での授業という形が、道徳教育としてどこまで有効なのかという検証が必要かと思われる。もちろん、授業という形が効果的なテーマは多いだろう。例えば、自分や他人の性的な写真をスマートフォンでやりとりすることにどのようなリスクが含まれており、もしそうした写真をインターネットで知り合った相手や交際相⼿から求められたり、写真をインターネット上に掲載されたりしたときにどうしたらよいのかについて議論し、学ぶことは現代の児童生徒にとって喫緊の課題であり、授業という形が適切であろう。
 しかしながら、レジリエンス(逆境に負けない力)を伸ばしたり、自分とは異なった背景をもつ人への偏見を減らし、寛容と相互尊重の精神を養ったり、コミュニティに参画し、人助けを行う姿勢を身に付けたりすることを目標にする場合は、イギリスのナショナル・シティズン・サービス(NCS)のように、実際に自分とは異なった背景をもつ人たちと一緒になって、1つの目的のために対等な立場で協力し合うという体験を積む方が、効果は大きいように思われる。また、他者へのケアの姿勢とスキルを身に付けるためには、実際に乳幼児や自分よりも年齢の低い子ども、障害児・障害者、病める人や高齢者と触れ合い、ケアする体験が有効だろう。もちろん、そうした体験活動は学校だけで提供できるものではなく、外部の協力や資金といったものが必要になってくることだろう。

片山 勝茂かたやま かつしげ

京都大学大学院教育学研究科博士後期課程学修認定退学。
日本学術振興会特別研究員(PD)、仁愛女子短期大学講師、同准教授を経て、現在に至る。
専門分野は教育哲学、シティズンシップ(市民性)教育、道徳教育。

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