- 本書をお求め頂いた皆様へ
- 国語科教育を革新する教材開発 /野口 芳宏
- 趣旨説明 /柳谷 直明
- 国語科言語活動系統(本シリーズで扱う教材名一覧)
- 第T章 ひらがな道場
- 〜ひらがなの正しい書き方を覚える〜
- 1 く /2 ぐ /3 し /4 じ /5 つ /6 づ /7 て /8 で / 9 へ /10 べ /11 ぺ /12 の /13 ひ /14 び /15 ぴ /16 ん /17 ろ /18 る /19 そ /20 ぞ /21 い /22 う /23 こ /24 ご /25 り /26 と /27 ど /28 ら /29 よ /30 え /31 す /32 ず /33 ち /34 ぢ /35 み /36 ゆ /37 め /38 ぬ /39 ね /40 れ /41 わ /42 に /43 け /44 げ /45 さ /46 ざ /47 か /48 が /49 あ /50 お /51 せ /52 ぜ /53 は /54 ば /55 ぱ /56 ま /57 を /58 や /59 む /60 も /61 た /62 だ /63 き /64 ぎ /65 ほ /66 ぼ /67 ぽ /68 な /69 ふ /70 ぶ /71 ぷ
- 第U章 カタカナを書こう
- 〜間違えやすい字から始めよう〜
- 1 シ・ツ /2 ン・ソ /3 ミ・ニ /4 ウ・ワ /5 フ・ク /6 ラ・ヲ /7 ヨ・ユ / 8 テ・チ /9 ケ・ナ /10 エ・コ /11 ヌ・ネ /12 ヘ・レ /13 ア・イ /14 オ・カ /15 キ・サ /16 ス・セ /17 タ・ト /18 ノ・ハ /19 ヒ・ホ /20 マ・ム /21 メ・モ /22 ヤ・リ /23 ル・ロ /24 ゛・゜
- 線書き道場/ 平仮名・片仮名ワーク枠
- 後書き /柳谷 直明
- 「鍛国研○○ゼミ」づくりの呼びかけ
国語科教育を革新する教材開発
「無限な宇宙に比すれば,人間は葦の如く弱いが,それを知っている人間は『考える葦』として『知らない宇宙』よりも偉大である。」と説いたのはフランスの大哲パスカルだそうである。「考える」ことによって初めて人間の尊厳が生まれる。「考える」ことのできる人間は実に偉大である。
では,いったい我々はどのようにして「考える」のだろうか。それは「言葉」という文化に支えられてである。思考とは,言葉の高度な操作の謂である。言葉を持たない動物はいかに利口に見えても「考える」ことはできず,本能によって判断をするほかはない。数語しか持たない赤ん坊の思考はないに等しく,言葉を多く獲得していくにつれて,その思考もまた複雑かつ高度になっていく。言葉を多く持つ者は言葉を少ししか持たない者よりも高度な思考ができる。深く,確かな思考をするには,多様な言葉を獲得することが不可欠であり,大前提となる。言葉こそ,思考の土壌だと言える。
数学では計算力,計算の技術が高いことが重要である。計算の技術が高いというのはどういうことを意味するか。例えば分数を例にとって考えてみよう。分数の計算をするには,まず分子,分母,通分,約分,仮分数,帯分数などという言葉を知らなければならない。これらの言葉を知ったその上で,加法においては共通分母なら分子同士を加える。減法においても共通分母にしたその上で,前項の分子から後項の分子を引くという「ルール」を適用する。つまり,計算の技術を身につけるということは,必要な用語を習得し,然る後にルールに則って演算をするということにほかならない。必要な用語を習得することなく,またルールの用語を学ぶことなくして数学の計算をすることはできない。用語もルールもつまりは知識であり,言葉である。このことから,私は以前から次のように主張をしてきた。
技術とは,知識を安定的に行為化できることである。
「安定的に行為化できる」というのは「行為化」が,物のはずみや偶然ではなく,いつも確実になされるという意味である。数学の学力が高いということは,数学に関する用語とルールを多く,確かに身につけ,それらを常に安定的に駆使できる行為力を持っているということである。
国語学力は,全ての教科の学力の中で,最も重要視されてきたし,今もされている。国語科は筆頭教科であり,授業時数もどの教科よりも圧倒的に多い。それらは国語科が重要視され,尊重されていることの証と言えるだろう。全ての学力が言葉や文字や考える力を前提としていることを思えば,国語科重視は当然のことである。
しかしながら,奇妙なことにその肝腎な「国語学力」を身につけるにはどうすればよいのか,という「学力形成の方法論」は,こと「国語科」に関する限り,ほとんど解明されることなく過ぎてきた。国語学力を身につけるには読書をするに限るということぐらいしか誰にも言えなかった。多くの大人が保有している現在の国語学力が国語科の「授業」によって形成されたと考えている人はまことに少ない。大方が,自分の国語学力は日常の言語活動の読み書きの中でいつの間にか「自然に」形成されてきた,と考えている。小,中学校でなされてきた国語科の夥しい授業時間は,その「有効性」と「貢献性」において極めて不評である。反対に国語科の授業への不信感と無力感が強く印象づけられているようだ。なぜ,こんなことになるのだろうか。
それは,国語科のこれまでの授業が,国語学力形成の大本になる必須の「学習用語」と,それを生かす「ルール」をほとんど解明せず,教えもせずにきたからではないか。これが私の「仮説」である。そのことを漠然と感じてはきたのだが,具体的な解明に挑むことにはついついためらい,泥んできた。何とかしなくてはいけない,という思いが頭を領しているだけだった。解明の一歩を全く踏み出さなかった訳ではないが,捗々しい進展はなかった。その難事に挑んだのが本書の著者,柳谷直明先生である。これは,国語教育改善提案の画期的なシリーズである。私は,どのようにこの本が現場の国語科教育を変えていってくれるかと,大きな期待を寄せている。長い間,誰も挑もうとしなかった国語学力の「学習用語」と,その「ルール」を明快に提示した大胆な本シリーズが,広く活用され,子どもの国語学力の確かな獲得と形成に役立ってくれることを私は強く期待し,かつ確信しているものである。
平成16年10月8日早朝 /野口 芳宏 記す
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- 明治図書