大阪発! 人権教育と情報・メディア教育のコラボレーション

大阪発! 人権教育と情報・メディア教育のコラボレーション

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ネット社会に対応して人権教育も変わらなくてはならない。

「人権教育」と「情報・メディア教育」をコラボレートさせる意義を明確にし、教育実践を紡いでいくためのイメージを展開、将来における本格的なコラボレーションの準備を示す。T部は双方のコラボレーションの意義と可能性、U部はコラボレーションの具体的な実践報告。


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ISBN:
4-18-024120-X
ジャンル:
人権教育
刊行:
対象:
小・中・他
仕様:
A5判 176頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

もくじの詳細表示

はじめに 「人権教育」と「情報・メディア教育」 /森田 英嗣
〜いまなぜコラボレーションなのか〜
◆T部 コラボレーションの理論化に向けて
1章 人権教育から見た情報・メディア教育 /森  実
2章 情報・メディア教育から見た人権教育とのコラボレーション /森田 英嗣
3章 ケータイをめぐる高校生の現状と課題
〜人権教育の視点から〜 /岩ア 江津子
4章 コメント
1節 人権教育の前提条件
〜森田提言に寄せて〜 /桂 正孝
2節 情報の海に人権の羅針盤をもって乗りだそう /矢野 洋
3節 情報教育と人権教育のコラボレーションのもつ可能性 /手取 義宏
◆U部 コラボレーションで実践をどう紡ぐか
1章 目からはいってくるものはおもしろい /尾澤 るみ子
2章 中学校を地域社会の交信基地に
〜選択授業「新聞社をつくろう」のとりくみ〜 /中 善則
3章 Imagine:私たちの将来・地球の未来
〜人権総合学習における情報教育〜 /中野 泰宏
4章「人権感覚」を育むための「メディア」活用
〜人権教育の場としての図書館(メディアセンター)〜 /諸角 裕久
5章 関係者の思いがこもった教育ネットワーク整備事業
〜合併した美原町,最後の教育関係新規事業〜 /東 孝彦
6章 情報教育プロジェクトの活動(2000年度〜2004年度)
…大阪府人権教育研究協議会・情報教育研究プロジェクト
7章 メディア・リテラシー教育
〜学びの場をどう創るのか〜 /西村 寿子
あとがき コラボからインテグレーションへ /矢野 洋

はじめに

「人権教育」と「情報・メディア教育」

   〜いまなぜコラボレーションなのか〜


1 社会を民主的に展開させるための基礎と基本

 「人権教育」と「情報・メディア教育」の両者は,社会を民主的に展開させるための〈基礎・基本〉を育成するカリキュラムである。

 「人権教育」には,さまざまなイメージやパラダイムがあり得るが,その基本的なねらいは,すべての人が人格や尊厳の感覚を発達させた主体となり,多様な主体との共生関係を築き,主権者として社会に効果的に参加する力を育成することにあると言ってよいだろう。わが国において「差別の現実から深く学ぶ」ことをその第一の原理として展開してきた同和教育も,女性や在日外国人,障害のある人などへの差別問題などを対象にした反差別の教育も,いずれも人格や尊厳の感覚を発達させ,共生的な関係を築き上げることに力点を置き,成果を上げてきた。そうしたことを行ってきた理由の一つは,すべての人が等しく尊重されることが社会を民主的に展開させるもっとも基本的な条件であるからにほかならない。一部の者が他の者を抑圧し,従属的な関係の下におき,その言論を圧殺する社会は,単に人々を不幸せにするというだけでなく,合理的な意思決定を不可能にし,結局は社会全体を弱体化させ,誤らせてしまう。

 こうしたねらいをもつ「人権教育」は,当然のことながら国際的にも推進されるべき教育だと認識されている。たとえば「人権教育のための国連10年」(1995年〜2004年),およびさらなる展開を企図する「人権教育のための世界プログラム」(2005年〜2014年)においても人権教育に関する同様のねらいが述べられている。

 ちなみに,「人権教育のための世界プログラム」に掲げられている人権教育のねらいを挙げると次のとおりである。

  (a) 人権および基本的自由の尊重の強化

  (b) 人格および尊厳の感覚の全面発達

  (c) すべての民族,先住民,ならびに人種的,国民的,民族的,宗教的および言語的集団の間の理解,寛容,ジェンダーの平等および友好の促進

  (d) 法の支配が規律する自由かつ民主的な社会にすべての人が効果的に参加できるようにすること

  (e) 平和の構築および維持

  (f) 民衆中心の持続可能な開発および社会正義の促進

 これらの実現は,いずれも社会の民主的展開のための土台を構築することである。言い換えれば,人権教育は民主的な社会を形成するための〈基礎〉の実現をめざすものだと言えよう。

 他方の「情報・メディア教育」はどうであろうか。(ここで「情報・メディア教育」とは,図書や図書館に関わる教育から,掲示板やポスター,マスメディア,コンピュータやインターネットに至る,情報やメディアに関わる教育の総体である。言い換えれば,従来から学校図書館教育,メディア教育,メディアリテラシー教育,コンピュータ教育,情報教育などと呼ばれ,メディアごとに構想されてきた教育を束ねる用語として「情報・メディア教育」という用語を用いる。)これは単に生活や仕事のために流通している情報やそれを媒介するメディアを活用する力を育てる教育という以上に,急速に発達しているコミュニケーションの諸手段を民主主義の道具として批判的に理解し,市民として社会づくりの文脈で活用するための教育として構想されるべきものである。実際,私たちは社会で起こるさまざまな出来事を,メディアを介して「知覚」し「知る」。そして,私たちはメディアを介して情報を集め,それらを解釈し,コミュニケーションをつくる。市民としての私たちの営みのすべては,メディアとそれが媒介する情報を用いることにほかならない。このようにしてコミュニケーションの手段としてメディアを理解し,活用する教育として「情報・メディア教育」を構想するとすれば,それは社会を民主的に展開させるための〈基本〉となる力を育てる教育であるということになる。

 こうした視座からの,情報やメディアについての教育についてのとらえは,国際的にも見られる。たとえば,ユネスコ(1982)による「メディア教育に関するグリュンバルト宣言」では,「市民にコミュニケーション現象への批判的な理解力育てること」が教育の義務であると述べられている。また,「責任ある市民を育てるものとしてのメディア教育」が必要であり,メディア教育は「聴取者,視聴者,読者の間に批判的な注意力をより大きく育てる」役割があると主張されている。さらには,現在国連によって展開中の「識字の10年」(2003年〜2012年)にはメディアリテラシーの育成が求められている。ここでメディアリテラシーとはグリュンバルト宣言で述べられたメディア教育を通して育つ能力そのものだととらえられてよい。

 このようにして,国際的には,市民教育の文脈で「情報・メディア教育」を構想することは自然であると同時に,必要なことだと認識されている。言い換えれば「情報・メディア教育」は社会を民主的に展開させるための〈基本〉となる力を育てる教育として期待されているのである。

 〈基礎〉の力を木の「根」,〈基本〉の力を木の「幹」とたとえることが可能ならば,「人権教育」と「情報・メディア教育」の双方は,まさに民主主義の骨組みを構成するための教育とイメージできる。ところが,従来「人権教育」と「情報・メディア教育」の関連づけは必ずしも意識的になされてきたわけではなかった。実際,「人権教育」と「情報・メディア教育」の双方で発言する教育研究者も,これまでほとんど存在してこなかった。ここではその理由を追求するのが目的ではないが,それを「情報・メディア教育」の側から探ってみるならば,次のようになるのではないか。すなわち,「情報・メディア教育」が,主として少なくとも少し前まで操作方法の習得に時間がかかるコンピュータ活用能力を中心に構想されてきたこと,そしてその目的が産業社会で生きる準備教育として構想される傾向が強く,人々が市民として社会と関わるための教育として構想されにくかったことなどが挙げられよう。

 しかし,最近になって,これら二つの教育は急速に接近しだした。その第一の理由は,インターネットや携帯電話の普及に伴い,ネットワーク上でさまざまな人権問題が生ずるようになってきたことが挙げられる。そこでは,「匿名性」をいいことに,他人を誹謗・中傷する者が暗躍し,差別的表現,攻撃的な表現が氾濫するようになった。子どもを巻き込んだ被害も報告されるようになり,私たちは情報機器を物理的に普及させ使い方を教えることに力を入れながら,そこから生まれる影の部分への対処を,単に「倫理的行動」や「ルールを守る」ことを教えることによって行っていこうとする従来からの教育カリキュラムに対して疑問を抱くようになっている。すなわち,物理的に活用する教育から知的に活用する教育,とりわけ「人権文化の創造」や「反差別」の視座からこうした現象を読み解く必要性が実感されだしたのである。

 さらに,二つ目の理由として,メディアリテラシー教育の考え方が人々の支持を集めはじめたことが挙げられる。たとえば,旧郵政省(現:総務省郵政事業庁)は,2000年に「放送分野における青少年とメディア・リテラシーに関する調査研究会」の報告書を提出し,メディアリテラシーを「メディア社会における生きる力」と規定し,次の三つの要素からなる力であると整理している(http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/policyreports/japanese/ group/housou/00621z01.html#s205)。すなわち,

 A)メディアを主体的に読み解く能力

  ア)情報を伝達するメディアそれぞれの特質を理解する能力

  イ)メディアから発信される情報について,社会的文脈で批判的(クリティカル)に分析・評価・吟味し,能動的に選択する能力

 B)メディアにアクセスし,活用する能力(メディア(機器)を選択,操作し,能動的に活用する能力)

 C)メディアを通じてコミュニケーションを創造する能力。特に,情報の読み手との相互作用的(インタラクティブ)コミュニケーション能力

である。

 ここで重要なのは,B)が規定するメディアの活用能力に加えて,A)とC)が規定されていることにある。すなわち,A)ではメディアの特質の理解に加えて,情報を受容的に〈読み取る〉のでなく,批判的に〈読み解く〉力が設定され,C)では社会に参画する基礎能力としてコミュニケーション能力が設定されている。これら2点は,すでに明らかなように,すべての人が主権者として社会に効果的に参加する力を育成することをめざす人権教育が育てようとする力と大いに重なる力である。


2 本書の構成

 本書は,こうした現状認識のもとに,本来的に親和性のある「人権教育」と「情報・メディア教育」をコラボレートさせる意義をより明確にし,また両者にとってより意義深く教育実践を紡いでいくためのイメージを展開させ,それらを通して将来におけるより本格的なコラボレーションの準備的作業を行うことを目的とするものである。

 本章に続くT部では,人権教育の立場から森実(大阪教育大学)が,さらに情報・メディア教育の立場から森田英嗣(大阪教育大学)が,双方のコラボレーションの意義と可能性を探っている。そこでは,それぞれの立場からの課題の整理がなされ,そうした課題の解決や双方の利益のために,コラボレーションがどのように役立ち成果が上げられそうかが,理論的立場から論じられている。さらに,岩ア江津子(大阪府立和泉高等学校)からは,高校生による携帯電話使用の現状と課題が人権教育の視点から紹介され,学校現場の実情からみての双方のコラボレーションの必要性が論じられている。

 T部の後半では,森と森田,および岩アの論考に対して,桂正孝(宝塚造形芸術大学),矢野洋(大阪芸術大学グループ塚本学院),手取義宏(大阪教育大学)がそれぞれの立場からコメントを提出し,人権教育と情報・メディア教育のコラボレーションが将来においてより積極的な意味をもつために考えるべき諸点について論じている。

 続く第U部では,コラボレーションの実際を具体的に示すのにふさわしい実践が,各実践者から報告されている。

【1章】 1章では,尾澤るみ子(箕面市立第一中学校)が中学校2年生を対象にして「社会的に作られた性差や,刷り込まれた女性像,男性像があること」を批判的に見抜いていくことを目指した自身の授業について報告している。生徒たちは雑誌の写真やポスターなど,誰の目にも触れるごく普通の「景色」をジェンダーの視座からとらえ直し,互いの気づきを交流し合い,さらには自分たちが表現者になって社会にメッセージを発信していく。ここには「読み」そして「表現」していく回路が人権文化の創造の文脈から自然に設定されていて,人権教育と情報・メディア教育のコラボレーションを考える上で示唆的である。

【2章】 情報・メディアに関する学びは,単に構成された表現を読み解くことだけに限定されるべきではない。自らが重要なメッセージをもち,それを人に伝える必要を感じる主体になったとき,学び手はもっとも具体的に情報やメディアの社会的な役割を知り,学ぶことができるようになる。そして,この学びが,他者によって構成された表現を読み解く前提になっていく。2章の中善則(岸和田市立土生中学校)による論文は,中学校において,そうしたカリキュラムの重要性とそれが不可能でないことを示し,社会的に意味のあるコミュニケーションをつくる情報・メディア教育の新しい地平をみせてくれる。

【3章】 中野泰宏(大東市立北条小学校)は3章において,子どもたちから社会的な課題に対するメッセージ(意見)を引き出し,表現(表明)させることで,社会と自分たちのつながりを意識化させる自身の人権総合学習について論じている。日本の子どもは社会を作り変えられるものだと見なす度合いが低いとも言われているが,そうした中にあって,社会的存在として自己を意識することは,人権文化を拓く人権教育の基本を提示するものである。さらに,本気で伝えたいことを構成した上で子どもにそれを表現させるというこの実践は,単なる表現技術の活用だけに終わらせない情報・メディア教育へのまなざしに満ちている。

【4章】 情報・メディアは,そのインパクトのある表現構成によって,人権教育の力強い手段となる。4章において諸角裕久(東大阪市教育委員会)は,中学校において構成された「図書館の時間」と呼ばれる独自のカリキュラムの中で,さまざまなメディアを活用した「人権感覚」を育てるための教育実践について報告している。そこでの学習においてメディアは,「感動」を引き出す契機となると同時に,生徒たちがそうした「感動」をもとにして社会的活動を展開させる道具ともなっている。

【5章】 学校での情報・メディアの活用は,子どもの学習権の保障の一環で行われるが,そのためには適切なインフラの整備が前提となる。しかしそのプロセスは,意外なほど知られていない。5章で東孝彦(堺市教育委員会)は,行政の視点からの,情報ネットワーク整備事業の展開について報告している。子どもに必要な力は何か,そのためにはどのようなインフラの整備を行うべきかを統合的に考える複雑なプロセスにどのような思いが込められたかが述べられている。

【6章】 6章は,大阪府人権教育研究協議会による,5カ年の「情報教育プロジェクト」(2000年度〜2004年度)についての報告である。これは,人権教育と情報・メディア教育のコラボレーションを目指した活動の中でもっとも初期的なものの一つであろう。そこでは,どのような情報教育が必要か,人権文化を創造し広めるという視座から検討され,「識字力」の育成機会として,「豊かな学びをつくる」ものとして,「ネットワーキング」の手段として,「メディアリテラシー」を学ぶ機会として位置づけられている。

【7章】 メディアリテラシー教育は,その学習内容に注目して語られることが多い。しかし,その目指すところを熟考するならば,「学びの場」をつくる方法にも等しく目を向けるべきであることが分かる。各地のワークショップを企画し・実施し,豊富な経験をもつ西村寿子(〔社〕部落解放・人権研究所/NPO法人FCTメディア・リテラシー研究所)は,7章でそうした「学びの場」づくりの実際を論じている。「学びの場」がどのようなプロセスを経て,何を大切にしながら設計されるのか。西村の所論は,人権文化の創造という視点からも極めて示唆的である。

 人権教育と情報・メディア教育のコラボレーションは,実際には実践を通して行われていく。そのアプローチにはさまざまなものがあってよい。尾澤や中,中野がめざしたように,双方の教育目標に対してバランスよく目を配り,両者の目的を実現させていこうというコラボレーションもある。あるいは,諸角が試みたように,どちらかというと人権教育を追究する手段として,情報・メディアを位置づけるアプローチも可能であろう。さらには,東が報告したように,情報・メディアのインフラを整える活動自体が人権を実現する実践である。大阪府人権教育協議会が行い,また本書が企図するように,二つの教育を俯瞰し,整理することもコラボレーションを実現する重要な作業であるし,西村が言うようにそれらがどのように学ばれるべきかを考えるところからコラボレーションを構想することも可能であろう。

 本書を契機にして,双方のコラボレーションが意識されるとともに,実践が多様に展開しより精緻なコラボレーションの理論が紡がれていけば,それほどうれしいことはない。


   /森田 英嗣

著者紹介

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※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
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